とくお組モブログ
いつも手元にとくお組

2017年

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今年は堀田メンディーになろうと思います。

あけましておめでとうございます。毎年、年始はどの人も一年の抱負を書くと思いますが、僕は今年は筋肉隆々になって最終的に堀田メンディーになろうと思っています。既に昨年から近くのトレーニングジムに申し込みをして、もう4回くらい行ってます。

前にもジムに通ったことがありまして、僕は基本的に筋トレが大嫌いなので、あの筋トレマシーンは全く使わずに、ただただ走っているだけだったのですが、今回は合計6回もの初心者説明会コースになっていて、毎回マシーンの使用が組み込まれており、おかげでこれは本気で堀田メンディーになってしまうのではないかと思っています。なお、妻に僕が堀田メンディーになったらどうするかと聞いたところ、「ならないと思うからまずは目指したらいい」と言われました。

どうなるかはわかりませんが、筋肉ムキムキ状態に一度もなったことがないので、一体どういう心理状態になるのだろうと今からワクワクしています。きっと周りに見せたくなって、必要以上に脱いだりしてしまうんだと思いますが、でも筋肉なんて鍛えたって使うときなんてそんなにないので、ほんと「人に見せる」が主になるのは仕方ないと思います。

てか、自分からというより、周りが見せろと言うようになって、隠すのも変だからと見せたら、あいつは見せたがっている、脱ぎたがっているみたいに言われて、筋肉キャラ=脱ぎたがり、みたいな構図になるのかもしれません。でも隠すなら何で鍛えるんだっていう側面も大きいと思うし(健康のためっていうのも…)、やはりこれはなってみないとわからないので、やってみようと思います。

あと筋肉隆々になると、髪型もたぶん変えたくなるのではと思っていて、それも実際にやってみて心理状態の確認をしてみたいと思っています。今年もどうぞよろしくお願いいたします。


Posted by 堀田 on 1月 3rd, 2017 :: Filed under 考察

2016年

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篠崎友の会に行ってきました。

先日、ザキさんが定期開催する篠崎友の会に呼ばれまして、最近僕の抱える人生レベルの悩み相談をしてきました。結果的にわかったことは、下手な友人に相談してもだめだけど、やはりザキさんに相談するとだいたいのことは解決するということでしょうか。おおよその解決の方向性はわかったので、大変有意義な会となりました。堀田の篠崎信仰は強まるばかりです。

あと、これは友の会でもいいましたが、先日、大学時代の友人との飲み会があって、3人での飲み会だったのですが、あとの二人が全然しゃべらないのもあり、流れで、今回と同様の悩みを打ち明けたのですが、人生の目標をどこに置いていいのか分からないという悩みに対して「子供ができれば変わる、子供のために生きようと思うようになる」と言ってくれたんですね。それに対して僕は結構な抵抗があって、でもそうなるものなのだろうかと思っていたら、柴田さんが「子供がいてもその悩みはある!」と言っていただけて、あーよかったと思いました。

ちょっと申し訳ないのですが、その友人は本当にいいやつなんですが、なんというか、ちょっと普通オブ普通というか、とんがった部分とか、おもしろ要素とか、「センス」みたいなのが違うというか、ちょっと彼自身はすごく好きだけど、「子供ができたら絶対に変わる」みたいに一緒に括られるのがいやだったので、柴田さんの発言には救われた気がしました。

実際、子供ができたわけではないので何ともいえませんが、いずれにしても子供が生活の中心になる時期はあろうとも、子供中心の人生には絶対になりたくないという思いがあり、子供も僕の人生を豊かにする要素のひとつ、ぐらいにしたいですね。そうするためには、自分がやりたいことをしっかり持っていないと、簡単に子供に人生持ってかれそうな気がしています。

話は変わりますが、そういうふうに、自分もまあまあ普通なくせに、普通な人になりたくないというか、正直、学生時代の友人との飲み会でうまく立ち回れないというか、一線を引いてしまうときがあります。以前にも、公演に団体でよく来てくれる中学時代の友人集団の飲み会に呼ばれ、そこに一人、イジられ役みたいな友人がいたのですが、そのイジられ方もそんなにおもしろくないし、さらに彼の返しも全くおもしろくないのに、まわりがウケにウケている状況があって、でもそのウケも心からのウケというか、その場の雰囲気で何となく笑っている感じが急に白々しく思えてしまったときがありました。

そのときはそれが妙に気に入らなく、機嫌が悪くなってしまい、ちょっと場の雰囲気を濁してしまった上、その場に居ない別の友人の結婚式へのサプライズVTRを撮るとのことで、「けっこんおめでとう」を一文字ずつフリップに書いたものを、ひとりずつ持ってコマ撮りしてつなげていく、という演出だったのですが、そのおもしろくない内容にまたイラッとしてしまい、コマ撮りなのに一切動かないとか、他の人たちが新宿の街中を練り歩いていろんな場所でコマ撮りしているのに耐えられなくなって途中で帰る、という態度を取った結果、その後、その団体は一度も公演に来てくれなくなる、という経験もしました。あのときは本当に申し訳なかったです。

友人を失うのは悲しいことなので、今後はそういうことはないようにと心がけていますが、いやなものはいや、みたいなところは感じるたびに反芻して整理しておかないと、なんとなく生活が楽しくなかったり、場合によっては人にいやな思いをさせてしまうので気をつけなければと思いました。そんなふうに2016年は僕が20歳ぐらいから数えて初めて、目印のない暇な一年だったので、いろいろ考えるよい機会になったと思います。


Posted by 堀田 on 12月 25th, 2016 :: Filed under 日常

PPAP

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ピコ太郎さんにきっかけをいただいて。

最近、否が応にも流れてくるPPAPを観ていて、正直ふっと笑ってしまったのですが、それを機に僕の中の凝り固まっていた何かが壊れたというか、少し素直になれたような気がしています。

昔からこういうその年の流行りギャグみたいなのはナナメから見ていて、その「真似できるおもしろ」を「みんなが真似している」状態に批判的でした。特にサラリーマンになってから、ギター侍やらマツケンサンバやら、それはそれは飲み会のたびに宴会担当の先輩に引き連れられて、いろいろ準備やら何やらさせられてましたが、本当にあれがいやで、それをやっている先輩もウケているまわりもちょっとバカにしていたところがありました。

でも自分が完全にサラリーマン化していくにあたって、そんな毎年出てくるネタにいちいち突っかかっていたら疲れるというか、別にみんなが楽しいならいいじゃん、みたいな寛容な気持ちになりかけていたところに、PPAPで自分も笑ってしまったこともあり、これを認めることで、今までのとこれからのを全て受け入れられるような気がしているところです。

一方で、自分がどんどん丸くなっていくのが少し嫌なときもあって、どこかで少し尖がっていたいのですが、なかなか難しいものだなと感じています。このあいだも、林先生の顔が気に入らないという内容のブログを書いていたのですが、書いている途中で、小さいブログとはいえ、わざわざ人の顔を批判しなくてもいいじゃないかというか、どう転んでもおもしろくならないというか、自らの品位を下げているだけというか、なんかそういうことばかり気になってしまって、結局書くのをやめたのですが、そういうときに、なんか最近ロックさに欠けているなあと思います。

今、せめてもの抵抗としているのが「君の名は。」を観ないでいるところで、ああいう大ヒットして感動する、泣けるみたいなのに対しては一歩引いていたいのに、実際に観たら感動してボロボロ泣いてしまうんじゃないか、みたいに、ただただ恐れているだけなのを自覚しています。

ちなみにPPAPはあの横を向くのがおもしろいですね。カメラワークの妙というか、あそこが僕はおもしろいと思いました。


Posted by 堀田 on 12月 18th, 2016 :: Filed under 日常

こころ

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新しい事業部の大宴会に行ってきました。

先日、僕の所属していた部署が解散になり、新しい部署に併合されたのですが、そういうこともあり大江戸温泉での大宴会が催され、飲んできました。最後、たまたまが重なって僕が締めをすることになったのですが、ザキさんを習い、勢いと情熱と愛情とを持って無事締めることができました。前にもいいましたが、中高時代の僕が見たらびっくりするだろうなと思うほど、昔に比べると自分は変わったなと思います。

結論としては「人は自信が全て」だと思うのですが、昔の自分は特にこれといった何か人と比べて秀でている部分がなかったので、とにかく自信がなかったというか、行動力も発言力もなかったですし、中身も空っぽだったのですが、人よりも演劇においては秀でていると思えたところから、そこを起点に演技以外の様々なことについても前向きに吸収できるようになったというか、いわゆる自分らしさみたいなのを持てている気がします。

とはいえ、僕のこの自信というのは本当に相対的なものであって、周りの人と比べて秀でている(負けていない)と思えるからこそ成り立っているというか、つまりどうあっても揺るがない絶対的なものではないなあと思います。高校時代もトップレベルよりもちょっと下の学校に行って、そこで上位に居よう、みたいな作戦を採っていましたが、なんかすごい優秀な人材ばかりの組織に行くよりも、いろんな人がいるちょっと古い体質の組織の中で、独自性を発揮できるほうがいいというか、結局、相対的な自信を保つことで心の健康を保っているという感じです。それこそ芸能界などに飛び込めなかったのは完全にそこがブレーキとなっていたと思います。

ただ相対的というと何か常に人と比べて優越感を得ているように思われるかもしれませんが、自らをフォローしますとそんなことはないですし、さらに言えば、他の人の良い部分や人生の先輩としての尊敬に値する部分を探すようにして自分の中で調和を保っています。そうでないときっと嫌なやつになってしまうだろうし、自分の能力(自信)が絶対的でない以上、嫌われたら終わりというか、いずれにしても周囲あっての自分なので、結局、謙虚さみたいなのが一番大事なのだと大人になるたびに思います。

というふうに、この先このまま無事に過ごせれば幸せな一生になるであろうことは見えていて、その代わり何か大功を成すこともないだろうことを考えるとちょっと物足りないという感じもするのですが、あるとしても今の会社で偉くなるぐらいしか思いつかないし、今の雰囲気だとあんまり偉くなる感じもしない上、そこを目指すとまた心の平穏が脅かされる可能性もあるし、そもそも偉くなってもあんまり大功でもないというか、なんというかぐるぐるしてしまうので、とりあえず今は少しずつ自分の自信の相対性を高めていくしかないなあと。つまるところ自分磨きをしてイイオンナになりたいと思います。


Posted by 堀田 on 11月 20th, 2016 :: Filed under 日常

異種

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最近、動物が好きです。

大人になってからなんですが、動物全般にすごく興味が出てきていて、旅行など何か遠出をするときはだいたい動物園や水族館、ワニ園などに行っています。写真は伊豆の動物園で挨拶したキリン。

動物のどこに興味が湧いてきたかと言うと、まずその種類の多さとへんてこな形状でしょうか。キリンとか象とか見慣れている一般的な動物でも、改めて首や鼻の長いのを見ると、なんだこれは!という気持ちがむくむくと出てきて、なんかずっと見ていられる感じです。動物園とか博物館に行くと、名前も聞いたことない、ドリルみたいなぐりぐりした長い角が生えている鹿みたいなやつとか、骨盤みたいな角が乗っかっているトナカイとか、いやー立派だなあ、と思わせられるようなマイナー動物もたくさん居て、本当にその種類の多さにびっくりします。

おそらく進化の過程でそういう形になっていったんでしょうが、理由は分かりませんが、それが合理的だと思って彼らはやっているわけで、本当、彼らを見るたびに一番頭が悪いのは人間なのではないかと思えてきます。動物は基本的に本能で、生きるために最も合理的と思われる選択肢を選んでいるのに、人間だけ、あれこれ悩んで、どうしてそうなるの的な間違った判断とかもしちゃうわけで、まあ結局感情ってやつがそういう非合理的な判断を導いてしまうんだよなあ、人間だものなあと、みつをのようなことをぐるぐる考えながら動物を見て回っています。まあ単純に動物よりも難しい判断を迫られているのはあると思いますが。

ただこれ、動物たちが総じてかわいいのが大前提にあるのでこれだけ受け入れられるのですが、虫は本当にダメです。生物の多様性という意味では、虫だって受け入れるべきなのだと思うのですが、もう見るのも嫌だし、なんなら気持ち悪いという理由だけで殺そうとするし、動物だって、近所でうろうろしてて角で威嚇されたり、部屋に入ってきてうんこでもしようものならマジ勘弁してくれとなりそうだし、そういう面では、僕の言っている動物好きなど薄っぺらいものだなーと、不必要に自虐的になったりします。

異文化も異種も受け入れるというのはなかなか難しいものなので、やはりもののけ姫のように子供の頃から慣らしておくのがいいというか、僕も小さい頃にもっと動物に興味を持っていたら、動物の研究をする道を選んでいたかもしれません。先日の国立科学博物館は高校生以下無料となっているのも、知識・科学の継承や優しい心の育成という意味で本当に意義深いことなのだと思いました。

他の国の宗教やら文化も早めに触れて慣れさせておいたほうがいいだろうけど、三角関数やら逆上がりやら、漢字やら絵やら音楽やら、教えなきゃならない内容って他にもたくさんあるだろうし、それが本当に教えなきゃならないかどうかも含めた優先順位付けも大変だし、本当に教育というのは一番難しい分野だなあと思います。


Posted by 堀田 on 11月 13th, 2016 :: Filed under 日常

科学博物館

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これは国立科学博物館のパンダプレートです。

先日、妻に誘われて上野の科学博物館に行ってきました。博物館というのは実はあまり馴染みがなかったのですが、行ってみてなかなか楽しいところだと思いました。宇宙の起源とか、生物の多様性とか、そういうのが好きなので足さえ疲れなければ何時間でも居られる感じです。

こういうのが好きなのもあるかもしれませんが、僕が会社の飲み会などでたまに熱弁するもあまり理解してもらえない理論があって、仕事をする上で問題や困難にぶち当たった後輩などに「究極的には光の速さだけが一定だから」といったザキさんみたいなことを言ってポカンとされることがよくあります。

僕も言い方が良くないと思うのですが、つまり言いたいのは、問題にぶち当たったときに、ああ嫌だとか、どうしようとか、悩んだり迷ったりするのもいいけれど、解決するためには、いま何がどう問題なのか、もっと具体的に言うと、誰が何を言っているのか、それが誰の意見とどう対立しているのか、それのどの部分がどう問題なのか、といった原因を細かく追究して問題点を明らかにし、それを解決する選択肢を並べ、決定権を持っている人は誰なのかを会社や社会のルールに照らして調べて決裁を仰げば、だいたいのことが解決するというか、少なくとも個人で思い悩むことはない、ということが言いたいのです。

つまりつまり、論理的に物事をなぜなぜと掘り下げていけば、問題点も解決策も(解決策が全くないことも)見えてくるし、それは究極的に突き詰めると、世の中は全て原子でできているとか、宇宙の起源とか、相対性理論みたいな話になるわけだから、ある意味、「論理的に物事を考えて事実を追究すること」のシンボルとして「光の速度だけが一定だ」みたいな話をしますが、ちょっと自分でも飛びすぎているなと反省します。

とまあ、ここまで解説したとしても「それは正論だ」とか「そんなうまくいかない」なんて言われます。主にその理由を問うと「人間は感情の生き物だから」みたいな背景なのですが、確かにどう正論で通したって嫌なものは嫌とか、好きなものは好きみたいな「愛」や「憎しみ」といったものはあるけれど、それはそれで理解できるというか破綻していないというか、この人が嫌だといっているのはただこいつが嫌いだからだ、という論理を明確にしてあげれば、じゃあどうすればいいか、みたいなのは見えてくると思います。「人間は感情の生き物だ」みたいなことを言う人はちょっと思考停止しているだけなんじゃないかと思います。

いずれにしても、そうやって問題の原因を分析していかないと、ともすれば自分のせいでうまくいかないとか悩んだり、誰も味方がいないような寂しい気持ちになったりして負の感情に支配されてしまう可能性があるので、しっかり何が悪いのか、自分が悪いなら謝ったり正しいアクションをすればいいし、自分が悪くないのなら悪くないで主張できるし、困ったときほど感情を排除して事実のみ追究すればいいということが言いたいんですが、なかなかうまく伝わりません。

みんな悩んだら科学博物館に行けばいいのに、と思いました。


Posted by 堀田 on 11月 6th, 2016 :: Filed under 日常

ハラ

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あくまで一般論として書きますが。

飲み会などで、いまだにセクハラ行為を散見することがあるかと思いますが、本当にあれは何とかならないものかなと思います。酔った勢いの”フリ”して女子の腕や肩を揉む人、卑猥な話を振る人、夜中に電話したりする人、いますけども、あれ本当に何なんだろうと呆れてしまいます。まあ単純にスケベなんでしょうが。

そういう人に限って、セクハラという言葉に対して「最近はなんでもかんでもすぐにセクハラだパワハラだと言われる」「昔はもっと飲み会で怒られていたし緊張感があった」といった嫌悪感を示すのですが、まあそうなんでしょうけども、セクハラはセクハラなので、いったい何を言っているんだろうといつも思っています。例えば、サラリーマンとして、上司の言うことを嫌でも聞いて、飲み会で緊張感を持って気配りをしたり、どんなに疲れていても最後の最後まで付き合ったりするのは、接待の練習にもなるし、別にいいことだと思いますが、それと女の子の身体を触ることは全く関係がないことなので、完全にロジックエラーを起こしているというか、とにかく「なぜ触るんでしょうか」と言いたくなります。「スケベ心で触ってんですよね」と言いたくなります。

普通に、女の子の身体を一瞬触ったことで得られる快感と、失う信用を天秤にかければすぐに分かることだと思うのですが、それでもやっているとなると、得られる快感がものすごいか、信用を失っているということがあまり分かっていないかのどちらかだと思います。おそらく後者だし、ちょっと翌日に冷たい態度を取られたりしたとしても、それをネタにまた男同士でゲラゲラ笑ったりしている感じもあって、本当にそういうことしてるから若手の心が離れていってしまうんだけどなあと残念に思います。ちゃんと伝えてあげられていない僕が悪いのかもしれないと思ってしまうほどです。

だいたいこの手の人はバブル絶頂期にばりばり仕事をしていた人たちで、すぐに飲み会でも昔話をしてあの頃を懐かしんだり、「最近はやりづらい」的な話をするのですが、かわいそうだけど、その時代はもう終わっているし、古き良きものもあるし、今の若手がよくないこともあるし、そこにいろいろ議論はできるけど、繰り返しになりますが、そのことと、女の子の身体を触ることについては全く関係がないので、本当に何をごっちゃにしてしゃべっているのだろうと思います。自分たちがスケベ心でやっていることを、サラリーマンとしてのマインド論と一緒に正当化するのは間違っているというか、何でそんなロジックになるのか、ちょっと信じられない思考レベルです。

そのあたり目を瞑ってても気分が悪いし、そういう場面で都度言っていくしかないのであって、それはそれで大変だし、もう面倒くせえなあ、大人なんだからちゃんとしてくれよと、あくまで一般論として思っています。


Posted by 堀田 on 10月 23rd, 2016 :: Filed under 日常

新垣と星野

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新垣と星野。

先日、この二人が出ているドラマをなんとなく観ていたのですが、もう自分はこんなにもガッキーが好きなのかよと改めて認識させられたのでした。ガッキーはずっと前からずっと好きでしたが、なんというか、それはもう当たり前すぎるというか、「ガッキーは殿堂入り」とか言って、ある種、棚上げして、他のかわいい子についてああだこうだ言っていたのですが、そこにガッキーが(高いところから)降りてきて、「一番は私でしょっ!」って怒られた気分でした。はい、一番はガキさんです。

今回のドラマで、ガッキーが社会から必要とされていないという点にありえなさを感じる訳ですが、そのせいあってか、ガッキーが喜んで星野源の家をきれいに掃除したり、看病をしてあげたり、料理もうまかったり・・・と、なんかいわゆる古い感じの女性らしさといいますか、献身的な感じが、もうお嫁さんにしたい欲を掻き立てられると言いますか、なんでこんなかわいい子が俺なんかのために、みたいな、そういうときめきメモリアル感もあって萌えるわけです。そして何よりも他のかわいい女優さんと違うのは、とにかく星野源に嫉妬してしまうことです。この嫉妬が過ぎてまともに観られない感覚ってのは、本当になんなんでしょうか。なに嫉妬してんだと。

ただそこもこのドラマはうまくて、星野源っていう天才を配置してくるから、まあこっちも全く太刀打ちできないというか、言い訳できないというか、星野源にならガッキーをやってもいいか、みたいな感じでなんとか観ることができます。これがただのイケメン俳優だったらちょっと嫉妬がメラメラし過ぎてしまうんですが、星野源はまず音楽がすごいからなあ、といった感じで、諦めがつく、納得がいく、という感じです。30歳を過ぎると、どこか「男は顔じゃなくて中身だろう」という風に、戦い方しだいではガッキーをも、みたいな発想になりがちですが、そこを完膚なきまでに叩きのめしてくる星野源の全方位的な隙のなさに、まさに屈服させられたのです。

小沢健二が出てきたときも、こいつは天才だとすぐにわかったのですが、星野源もそういう感じというか、ああ、こいつはもうあらゆる面でモテるやつだし、しかもいいやつで友達にもなれそうだし、この飛び抜けた才能を持っているくせにいい塩梅な感じは、本当にこれはガッキーをモノにできるのではと期待するし、彼でなければもう納得できないところまで僕は来ています。


Posted by 堀田 on 10月 15th, 2016 :: Filed under 日常

フレンドリー

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このおじさんが元凶な気もしますが。(女子アナはいいです)

テレビと言えばニュース番組ばかり見ているのですが、NHKの夜の番組で、ラジオブースみたいなセットの番組における、ちょっとフレンドリー感というか、崩した感じの演出が上手くいってないような気がしています。

あの普通のニュース番組と違うカメラアングルとか、おじさんのしゃべり方のラフさとかが、なんかハマってない感じというか、敢えてそうしています感、こんなスタイルにも挑戦しています感が前に出ちゃってて、なんか不自然で、観ていてちょっと眉をひそめてしまいます。ニュースに対するコメントやトークも、正直あんまり面白くないというか、滑っているというか。

めざましテレビの内輪ウケ感も相当ですが、あの人達は性格が明るいというか、本当に楽しそうだから気にならないんですが、NHKの方は、Twitterやらスタイルから入っている枠組みに、出ている人がハマり切れてない感じがして、そのくせちょっと得意げというか、うまくできてると思っている感じがするというか、いや、やるならもっとめざましさんみたいにちゃんとやれよ!と思ってしまいます。

まぁ何よりも一番イラっとするのはTwitterのコメントがいちいち出てくるところで、「〜〜は大事です。」と当たり前のことを念押ししたり、政治家に「海外もいいけど、国内もしっかりよろしくお願いします」とか釘を刺したり、あの一般人が正義漢ヅラしてテレビで喋ってる感じがうるさいので、あれは本当に非表示設定できるようにしてほしいです。

めざましテレビの占いも、「でも大丈夫!今日のラッキーアイテムは、にしんのすまし汁です! いってらっしゃい!」みたいな、いやいや、なんで12星座のザックリさでそんな超具体的なアイテムなんだみたいなむちゃくちゃ感がすごいありますが、そういう突っ込みも全く意に介さず、とにかく朝は笑顔でいってらっしゃいなんだ、みたいな、そういう振り切れてる感じが潔く、一枚も二枚も上手だと思います。


Posted by 堀田 on 10月 8th, 2016 :: Filed under 日常

ネックレス

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ネックレスは多分一生しないと思います。

予め申し上げておくと、決してネックレスをつけている男性がどうのこうのではなく、単純に自分がつけられないという話です。結婚してから指輪だけはつけていまして(父は失くして怒られたから)、なんとなくその違和感ももうなくなってきたわけですが、どうにもネックレスだけは無理だろうなと予想しています。しなきゃいいだろって話ですが。

なんにせよ、身につけるものに機能的な意味を求めてしまいがちで、ネックレスをつけるなら磁気ネックレスならいいとか、指輪も結婚したし失くしたくないからとか、そういう理由をつけなければならないのは、本当に残念なことだと最近思っています。つまり、ファッションとして身につけられなくなってしまっていて、そのセンス一本で勝負できないので、つい、そうではない理由を必要としてしまい、結果、装飾モノは何もつけられません。帽子も無理ですね。

前も書いたかもしれませんが、昔はコンタクトレンズの日もなんとなくあったのに、最近では眼鏡キャラで会社でも通っているので、もう理由もないのにコンタクトにしてしまって「今日は何か勝負の日なのかな」とか思われたくない一心で、もうコンタクトは芝居の本番以外では付けられません。せっかく買った装飾品であるレイバンのサングラスも、コンタクトの日がないのでかけることができません。

このファッションについては、これはもう自信のあるなしが全てというか、究極的に正解はないので、俺はコレがいいと思う、みたいなのが強ければいいんですが、ないので、てかなんだかんだでその時代ごとに正解・不正解があったりするから、もう本当に毎日誰かに決めて欲しいし、会社がスーツで行ける会社でよかったなと思っています。

ただヒゲがもっと生えれば、そのあたり変わっていける気がしています。


Posted by 堀田 on 10月 2nd, 2016 :: Filed under 日常

募金

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したいと思っていますがしていません。

街で募金をやってるのをたまに見かけますが、内容にもよるけど、基本的には募金してあげたくなるんですが、したことはほぼありません。コンビニのレジにあるやつはできるんですが、街頭のやつはどうにも無理です。

一番募金したくなるのは盲導犬で、あれは本当に盲導犬は偉い!と普段から思っているのもありますが、実際に目の前に盲導犬が寝そべっているので、お利口さんねー!と褒めたい気持ちで募金したくなります。でもしません。

しない理由は単純に恥ずかしいからだと思います。一体何が恥ずかしいんだか分かりませんが、優しい人間みたいに見られたいと思ってると思われるのが嫌なのか、入れるときにお礼を言われたりする触れ合いが恥ずかしいのか、とにかくわざわざ足を止めて財布を取り出して、っていう間が嫌なんだと思います。

あとなんか、根底に募金をやることが偽善っぽいと思っているというか、誰かのために立って声をあげている行為に、なんか素直になれないというか。募金ってそんなに効率のいい集め方じゃない気がするし、その時間働いたほうが稼げないか?とか、あと実際たまにちょっと気持ち悪い人がやってたりして、その募金対象には募金したいけど、なんかあなたには嫌なんだよな、みたいな。ああ、なんて汚い心の持ち主なんだと書いていて自戒します。

最近では、貧しい子供たちのために毎月定額で引き落とされるタイプとかあって、あれは誰に見られるでもないのでいいのですが、それでも、なんかそういうことをして自己満足したい自分のエゴの方を意識してしまい、結局やってません。この偽善という概念との闘いはなんだろうと思います。別にもはや偽善でも何でもない素直な気持ちなのに、当の僕が偽善判定をしてブレーキをかけるという。

「しない善より、する偽善」と言われるように、偽善でも何でもいいからやれよってのは分かっているのですが、募金を目の前にすると、結局、何も感じてないフリして目もくれずに通り過ぎてしまい、何となく罪悪感を感じています。いっそ触れ合いとかいいから、改札機みたいにSuicaでピピッとタッチする感じで募金できればいいんですが。


Posted by 堀田 on 9月 21st, 2016 :: Filed under 日常

集めて揃えて並べる

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集めて揃えて並べるのが好きです。

僕に限った話ではないと思いますが、同じシリーズのものを集めて並べるのがとても好きです。マンガとかDVDは分かりやすい例ですが、大きさが揃っていて、番号が振ってあって、均等に並べることができるものに喜びを感じてしまうのは僕がA型だからでしょうか。

たまにDVDとかで一枚一枚の表紙が全て同じで、番号だけ違うのがありますが、あれは好きではないです。シリーズのいいところは規格が同じだけどそれぞれが違うところなのであって、太陽にほえろ!のDVDとかは全部違う装丁だったのに、途中から同じ写真になってしまって、もうそれだけで集める意欲が失せてしまいました。たまにそういうコレクター気質を理解していない商品があったりすると分かってねえなあと思います。

仕事に於いてもそうで、僕は新規担当営業だったりする訳ですが、会社の共有フォルダに提案先企業ごとのフォルダを作っていて、提案中は企業名だけのフォルダ群なのですが、新規でGETできた場合には、そのフォルダ名を右クリック→「名前を変更」をして「01.〇〇社」「02.△△社」…という風に番号を振ると、新規獲得企業が上から順番に並ぶので「おおー」と自分の中でなって、また集めたくなる、みたいなことをしています。今度、後輩ちゃんが仕事を穫ったらこの番号を振る儀式をやらせてやりたいと思うのですが、多分「あーはい、わかります」とスカされてしまうのだと思っています。

という風に同じ規格のものを並べるのが好きなので、丸いものよりも四角いもののほうが好きというか、佐藤可士和の事務所みたいな、四角い箱が並んでいる倉庫みたいなのにすごく萌えます。そういうのは自然界にはあまりないと思うので、やはり都会のコンクリートのカクカクした世界でずっと生きて行きたいなと思っています。


Posted by 堀田 on 9月 18th, 2016 :: Filed under 日常

加藤

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加藤紘一さんが亡くなられて。

「加藤の乱」で有名な加藤紘一さんが亡くなられて、なんだか悲しい気持ちになっています。加藤の乱の「あんたが大将なんだから!」のシーンはとてもおもしろく、とくお組では何度か舞台中でパロディをしており、大変お世話になっていましたので。

正直、リアルタイムで見ていたときは、加藤の乱について何も理解していなく、ただ子供心に「政治家が何かやっているな」という印象で、むしろその劇場型といいますか、そんな内部のドラマをわざわざ報道陣の前でやっている感じが、ちょっと酔っている感があってどうかなと思ったくらいで、ただそれ以上におもしろかったというか、加藤さんが目を真っ赤にして口を真一文字にして堪えている顔が、何か訴えるものがあって、結果的にすごく印象的でした。

今になって乱の顛末をWikipediaとかで知ってなるほどとなっているわけですが、亡くなってからも各種報道では、改革を目指して反旗を翻した加藤の乱について触れ、また彼の人柄や政治家としての高い能力などを紹介するなど、誰も悪い風に言っていないのは、やはり実際にこの人は周りの人に信頼されたいい人だったんじゃないかと思ったりします。もちろん、政治家は出世を本懐とした人たちのドロドロした世界だから、いい人なんて居ないんだと思いますし、故人を悪く言わないのもあると思うのですが、それでもやはり世間から惜しまれている感じがなんとなく伝わります。森さんが亡くなってもこういう雰囲気にはならないのかなと。

やはり大きな組織に於いて、改革をするのは本当に生半可ではできないというかほぼ不可能で、そういう面では加藤さんは少し甘かったのかなと思いますが、男なら、ロマンというか、そういう夢に向かって突き進む人生も悪くないし、実際そんな加藤さんをヒロイックに感じて人は語り継いでしまうのだと思います。結果的に改革もできず首相にもなれなかったけど、よっぽど首相になるよりも人の心に強く残ったのかなと思いますし、少なくとも僕らは、今後も加藤の乱をしばしば再現させていただくと思います。

心よりご冥福をお祈りいたします。


Posted by 堀田 on 9月 11th, 2016 :: Filed under 考察

バイキング

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帝国ホテルに行ってきました。

早いもので先日結婚記念日を迎えることができまして、記念に奮発しようということで妻と帝国ホテルのバイキングに行ってきました。写真は後半にひたすら食べたパンです。

北海道の新婚旅行では、ホテルのバイキングが今ひとつで、期待していたほど美味しくなく「普通に美味しい」の域を出なかったのですが、そこはやはり帝国ホテル、大変美味しくいただきました。

食べながら北海道のバイキングと何が違うのかを考えてみると、まず、お皿が違いました。北海道では3×3の9マスのお皿に盛っていくのですが、帝国ホテルは普通のお皿に盛ります。一見、仕切りがなくて不便ですが、仕切りがあるとプレート感というか、社員食堂感が出てしまい、結果、お皿のほうが高級感があります。

さらに食べ終わったお皿は、僕らが料理を取りに行っているうちにホテルマンがいつのまにか(いつのまにかではないですが)下げていたり、高い位置からお水をさーーーっとかっこよく入れてくれたり、我々のことを「奥様」「旦那様」と呼ぶなど、同じバイキングでもやはり違います。

見渡せば、客層も、北海道は旅行客がほとんどだから浴衣を着てるファミリーが中心ですが、帝国ホテルは多少着飾った大人の男女が中心で、かかっている音楽、夜景、などなど、隅々に高級感があるわけです。

ここまで来て遅ればせながら、僕らは料理というよりも、雰囲気を食べているのだということに気がつきました。よくテレビで芸能人の格付けと称し、高級ワインと安ワインの飲み比べなどをしてますが、実際はあれの通りで、なかなか僕みたいな普通の人は違いがよくわからないはずで、エビフライとかもすごく美味しかったけど、ニチレイの冷凍食品をあそこで食べたら絶対うまいと言っているだろうと思います。もちろん、絶対的にうまいものばかりでしたが、もはやその”確からしさ”なんて帝国ホテル側しかわからない。まぁつまり、どこにお金を払ってるかっていうことに改めて気がつきました。

いずれにせよ、世の中不景気だと言われていますが、我が身を顧みれば、南青山に住むだの、記念に帝国ホテルで食事をするだの、客観的に見て、リッチな生活をしてるもんだなと思います。これもこれまで育ててくれた両親や友人・会社の方々の支えがあってのことだなと、まず感謝の念を抱くことができたのも、これも帝国ホテルの雰囲気なのだと思います。


Posted by 堀田 on 9月 5th, 2016 :: Filed under 日常

下の名前

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女子大生の話に聞き耳を立てています。

カフェやレストランなどで隣の話をなんとなく聞いてしまうのですが、女子大生の会話で、おそらくサークルの男子の話なのでしょうが、「こないだカズヤが」とか「でもそんときマコトに言われたんだけど」とか、ファーストネームで呼んでいるのが、なんか一軍感があっていいなと思います。

僕なんか、下の名前はヒロシですけれども、ヒロシなんて女子に呼ばれたことは一度もなくて、でもそれは僕がそう呼ばれるような風体をしていないからで、きっと僕がもっとチャラっとしているというか、トレンディーというか、もっともっと明るいやつだったら、周りの女子もそういう子たちだろうし、そういうサキとかアヤみたいな女子から、ヒロシがこないだ車を運転してたときに、なんて話をされてたんだろうなぁと、そんなパラレルワールドを想像したりしています。別にそうなりたかったわけでもないけど、そういうパターンもあったんだろうなと、その分岐点はどこだったんだろうなと考えたりします。

そう思うと、学生時代も僕の周りの仲間たちは、「こないだヒトシとマサヒデが」とか「コウジが」「シュンタロウが」とか誰も呼ばれてなかったし、一方で「テッペイが」「テツマが」とか呼ばれるやつは同期でもいたけど、彼らとはそんなに仲良くなかったし、まぁもっと前の時代、なんなら生まれたときからやっぱりこの道だったんじゃないかなと思います。

あと、ああいう一軍の人たちはあだ名をあんまり付けないイメージですね。ボーイとか、中将とか、カフェでそういう名前を耳にしないので。てか、ばかにしてるわけではないんですが、下の名前で呼び捨てにするのってちょっと恥ずかしくないのかなとか思ってしまいます。ダンサーがみんな下の名前でアルファベットみたいなのと同じ感じがして、なんか聞いてて笑ってしまいそうになるときがあって、そういうときに自分は根暗だなと思います。


Posted by 堀田 on 9月 1st, 2016 :: Filed under 日常

フリーアドレス

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フリーアドレス制に反対です。

僕の会社ではマーケティング部のフロアがいつの間にかフリーアドレス制になったらしく、写真までおしゃれではないものの、そういう感じになっています。フリーアドレスと一口に言ってもいろんなパターンがあるようですが、つまり自分の席が決まっていなくて、クジで毎朝決めたり、各々好きな席に行って仕事をしてよい、というものだと思いますが、自分がこんな環境で働くとなったらもう会社に来ないかもしれません。

何が嫌って、毎朝どこに座るのかを選択させられるのが嫌で、例えば、今2年目の女子のトレーナーをやっていることもあり、その女子と隣同士なのですが、業務上、隣のほうがいい部分も多いので、フリーアドレスで常に隣に座るとするじゃないですか。そうしたら堀田はいつも若い女子の隣にいるとか冗談でも言う輩が出てくるわけで、そういうのが本当に面倒なのです。

他にも、毎回片付けなきゃならないとか、人を探すのが面倒、とか業務上の不便さを挙げ出したらキリがありませんが、例えそれが全て解消されたとしても絶対に嫌です。なぜなら寒いから。ダサいから。

いや、googleとかサイバーエージェントとか、そういうイケイケ系の会社ならハマると思うのですが、創業60年近い日系IT企業の我々がこういうことやっても格好付けにしか見えないというか、流行に乗っかっているだけな上に、ちょっと遅いし、似合っていないのがダサいと思ってしまいます。そもそも、フリーアドレスの狙いである、「いつもと違った人と隣り合って会話することで、『お、それちょっとおもしろいですね。今度僕らとコラボしましょうよ』といった企画が出てくる」みたいなのが、少なくともうちの会社では絶対に起きないと思っているし、そういうノリの人間を全然採用してないじゃん、と思っています。さらに踏み込むなら、そういうのは美人やイケメンやお洒落さんがやって初めてハマるのであって、ブス・ブサイクがそんなのやったってだめだよ、って思っています。

という話を、フリーアドレス容認派の同期と交わしていたのですが、2年目、3年目の若手たちが総じて「フリーアドレスになったら会社辞めます」と宣言してくれていて、ああ、本当にいい若手が入ったなと思いました。


Posted by 堀田 on 8月 22nd, 2016 :: Filed under 仕事

お菓子

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お菓子が好きです。

日々、間食をしないようにとは思っていますが、我慢すればするほど、こういうお菓子を気兼ねなく食べたくなって、結果、食べたりしています。特に一人で家でゴロゴロしている休日に、漫画を読みながらポテトチップスなどを食べ、一冊読み終わって次の巻に手を伸ばす瞬間に、ああ幸せだなぁと思うものです。

じゃがりこも結構好きで、ポテトチップスに比べてコンパクトサイズなので、ついペロリと食べてしまいます。

前に出張で新幹線に乗っていて、なんか食べたいなと思ってたところに、移動販売のお姉さんが「じゃがりこ、トッポなど…」と言いながら通りかかって、じゃがりこ食べたいなーと思ったもののその時はがまんをしてスルーしたのですが、やっぱりじゃがりこが無性に食べたくなって、お姉さんが2週目でやってきたときに「すみません、じゃがりこください」とピンポイントで言ったのに、「申し訳ありません、じゃがりこは売り切れまして、柿の種やトッポならありますが…」と言われ、「あ、じゃあいいです」と答えたのですが、なんかすごくじゃがりこを食べたかった一点狙い感と平静を装った感がバレバレでとても恥ずかしかったです。

最近、35歳の大人が一人でお菓子を買う感じが恥ずかしいというか、全然普通だと思うのですが、数年前にカッコつけでブラックコーヒーを飲み始めたあたりから、なんか変な自意識過剰でよくないなと思います。基本、食に興味ないフリをしたいのだと思うのですが、全くそんなことがなく、顔もどっちかというとブラックコーヒーよりもじゃがりこみたいなくせに、ほんと自分で自分にいい加減にしろよと思います。


Posted by 堀田 on 8月 17th, 2016 :: Filed under 日常

ミスコン

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先日、妻がミスコンに出る夢を見たそうで。

なんのミスコンなのかはわかりませんが、曰く、何かしらのミスコンにエントリーしていて、最初は他の出場者とも「がんばろうね!」「緊張するね!」などと結束していたそうです。そして審査に入ると、タキシードを着たウルトラ兄弟が現れて、各々のウルトラマンたちの推薦を受ける審査方式らしく、他の参加者にはいろんなウルトラマンが付いてくれているのに、妻には誰も付かず、振り返ると、袖の長いタキシードを着たバルタン星人が、長い袖により自慢のハサミを閉じられた状態で立っており、なんだバルタンかあ、となったらしいです。

その後、他の出場者が正装したウルトラ兄弟たちにエスコートされてドレスアップしてきて再登場し、最初は団結していたにも関わらず、バルタンしか付いていない妻を見下し始めると(本来であればここでブチ切れるのになぜか夢の中では大人しくしていたそうですが)、そこに宝塚歌劇団花組トップスターの明日海りおさんが特別審査員として突如現れ、「優勝者は昨年優勝者の連番で決まります」などと驚きのルールを明かし、結果、エントリーナンバー145番の妻が逆転優勝したそうです。

さらに副賞として高級自動車が贈られることになり、車を会場まで持ってくるまでの時間ができたそうなのですが、妻が自分も車に乗ってくるのかと勘違いして会場からハケてしまったため、主役が居なくなって会場がざわつき、それに妻も気づいて急いで戻ってきたら、それを見て会場全体がふわっと和んだ、みたいなお話です。

なんというか、僕はよく「全裸で仕事をしていて途中で気づいて慌てて家に帰る」という精神衛生上良くない夢ばかり見るのですが、この「大好きな自分が大好きなものに囲まれている」楽しい夢を見られるのがとてもうらやましいと思いました。基本「寝ていても自分の笑い声で起きる」みたいな人なので、そのポジティブさは見習いたいところです。ただそのうち永塚君みたいに夢遊病にだけは発展しないでほしいと思います。本当に恐いから。


Posted by 堀田 on 8月 7th, 2016 :: Filed under 日常

本質的な優しさ

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劇団メンバーにも知らないうちにほとんどが既婚者となりましたが、私自身、ドラマの仕事などでも「不倫」「結婚」などに関する話題をちらちら書くことも増えました。自分もいい歳になってきたということです。

最近、妊娠中の小倉優子の旦那が不倫していたということがニュースになってましたね。10月10日が結婚記念日だということで、毎月10日に花を贈っていたとのこと。月命日みたいですね。こういう男性は男から見ても危険というか、嘘臭い見本です。

基本的に、男性は「ロマン」や「気持ち」などが無い生き物です。サプライズしたり、花を贈ったり、そういう男は自己愛こそあれど、純粋に相手の喜ぶ顔が見たいとか、そういうのは突き詰めていけば、嘘です。「いやいや、ウチの旦那は優しいですよ。ホントに」という人もいるかと思いますが、その手の優しさの問題点は、「他の女性にもやる」ということです。誰にでもできる優しさは、誰にでもやっている、というのが単純な答えです。

自分も人の夫として、どのような夫であることが一番自分らしく自然で、かつサービス精神があり、それでいて他の女性にはそれをしない、というバランスを保つことができるのか。これは考えれば考えるほど結構難しい問題です。

突き詰めて考えた結果、「特になにもしないが、元気で生きている」ということが最高の夫なのでは、と思いましたが、それに妻が賛同してくれるほど、現実は甘くありません。何もせず、生きているだけなのに気づいたら妻が横で噴火していた、なんてことは世間の夫あるあるですが、そうならないためには、日頃から入念に計算とシミュレーションをした上で、定期的に気の利いた優しさを見せねばならないのです。

花を贈るとか、そういう怪しげな表現ではなく、もっと本質的で、日々の生活に馴染んだ優しさです。優しさの見える化です。

「とりあえず、返事をする」ということが今のところ導き出した解です。

 

 


Posted by 徳尾 on 8月 3rd, 2016 :: Filed under 日常

辞めればいいのに

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そんなに言うなら辞めればいいのに。

よくカフェなどでお茶をしたり、電車に乗っていたりすると隣の人の会話が聞こえてきたりしますが、特に女性同士の会話で、仕事への愚痴が聞こえてくることがよくあります。その中で「辞めたいんだけど、引き止められてるから我慢している」という趣旨の話をする人が嫌いです。

昔、コンビニの朝バイトをしていたときに、よく一緒になるおばちゃんがいたのですが、その人がやたら店長への愚痴を僕にこぼす上、こんな店辞めたいんだけど、店長に引き止められているから辞められない、という謎の「私は必要とされている」「私を外せない」感を出してくるのがすごく嫌でした。

店長が引き止めているのはシフトに穴をあけたくないからであって、あなたの能力を見ているのではなく、数として見ているのだと思うし、そもそも本当に店長が引き止めているのかも怪しいし、こいつが辞めると言っているかも怪しい、と思っていました。

という感じで、だいたい女性2人組のおばちゃんに多い傾向なのですが、会社の誰かの悪口に近い愚痴を言いながら、「辞めたいけど、私が抜けたら大変」だの「周りからも、そんな会社早く辞めた方がいいって言われてる」だのと好きなように言っているけど、いいから早く辞めてみろよ、多分辞められるからと言いたくなります。辞めたら次に雇ってくれるところがあるか分からない、みたいなことは全然言わず、あくまで今の職場に求められている(私は嫌なんだけど)というスタンスがイライラします。

まあ愚痴ること自体はいいと思うのですが、こういう人は大抵、自分の必要度が高いことをやたら誇示し、ひいては周りの人間が如何に劣っているかにまで話を広げ、場合によっては顔の造形など身体的特徴を引き合いに出してバカにし始めるという傾向があって、じゃあお前はどんな顔だと思って見ると、ああやっぱりそういう性格しているとそういう顔になっちゃうよね、みたいな顔をしていてなんだかなあとなるので、せめてもっと小さい声でしゃべってほしいなと思います。

写真はそういう話を聞いているときの僕の心境。


Posted by 堀田 on 8月 2nd, 2016 :: Filed under 日常