二軍
プロ野球をよく見ています。
最近おうち時間が増えたのと、巨人が強いのもあって、毎日のようにプロ野球を観ています。毎日観ていると、選手の名前も覚えるし、誰が二軍に落ちたとか、誰が一軍に昇格したなんてことも分かるようになり、そうなると、二軍から這い上がってきた選手がチャンスを活かせなかったりすると、ああ、やはり厳しい世界なんだなと思ったりして、今度は二軍の試合も観たくなったりしています。これはいわゆる沼というやつでしょうか。
二軍と言えば、最近ではスクールカーストとも言われてますが、学生時代の僕は間違いなく二軍選手でした。一軍と言われる華やかな同級生とは別グループで、それなりに楽しくやってるけど、彼女なし。でも特に一軍になろうとはせず、むしろ一軍へのコンプレックスを自身のアイデンティティにしていくもので、プロ野球のような厳しさはないものの、この人格形成の時期に二軍落ちすると、もう一軍には這い上がれない、そういう別の厳しさがあるように思います。つまり万年二軍と言いますか。
聞けば妻は、学級委員長やら部活の部長やらリレーの選手やら何かの委員やらを歴任していたらしく、いわゆる一軍選手だったと思われますが、妻が「世の中のコラムなるものが面白いのだけれど心底から共感ができないから自分には書けなくてなんか悔しい」といった趣旨のことを言っていて、そこで思うのは、コラムなんて大概二軍選手のコンプレックスの吐き出しであって、どれだけ人格形成期に世界を曲げて見ていたかなので、真っ直ぐ生きていた人にはできない数少ない分野なのかもしれません。
こう書くと、一軍選手と結婚してるんだからいいじゃないかとなるかもしれませんが、そこは二軍の中でもキラリと光る武器を磨いた結果というか、例えばこんな僕でも小学生のとき一度だけ学級委員長になったことがあるんですが、クラスの誰もその事実を覚えていないという世にも奇妙なことになっていて、そういう不遇をバネにして努力した結果なのだと自分で自分を褒めてあげたい(有森)わけです。そういう風に何よりも自分に甘いところが二軍たる由縁だと思います。
Posted by 堀田 on 8月 16th, 2020 :: Filed under 日常