とくお組モブログ
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こころ

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新しい事業部の大宴会に行ってきました。

先日、僕の所属していた部署が解散になり、新しい部署に併合されたのですが、そういうこともあり大江戸温泉での大宴会が催され、飲んできました。最後、たまたまが重なって僕が締めをすることになったのですが、ザキさんを習い、勢いと情熱と愛情とを持って無事締めることができました。前にもいいましたが、中高時代の僕が見たらびっくりするだろうなと思うほど、昔に比べると自分は変わったなと思います。

結論としては「人は自信が全て」だと思うのですが、昔の自分は特にこれといった何か人と比べて秀でている部分がなかったので、とにかく自信がなかったというか、行動力も発言力もなかったですし、中身も空っぽだったのですが、人よりも演劇においては秀でていると思えたところから、そこを起点に演技以外の様々なことについても前向きに吸収できるようになったというか、いわゆる自分らしさみたいなのを持てている気がします。

とはいえ、僕のこの自信というのは本当に相対的なものであって、周りの人と比べて秀でている(負けていない)と思えるからこそ成り立っているというか、つまりどうあっても揺るがない絶対的なものではないなあと思います。高校時代もトップレベルよりもちょっと下の学校に行って、そこで上位に居よう、みたいな作戦を採っていましたが、なんかすごい優秀な人材ばかりの組織に行くよりも、いろんな人がいるちょっと古い体質の組織の中で、独自性を発揮できるほうがいいというか、結局、相対的な自信を保つことで心の健康を保っているという感じです。それこそ芸能界などに飛び込めなかったのは完全にそこがブレーキとなっていたと思います。

ただ相対的というと何か常に人と比べて優越感を得ているように思われるかもしれませんが、自らをフォローしますとそんなことはないですし、さらに言えば、他の人の良い部分や人生の先輩としての尊敬に値する部分を探すようにして自分の中で調和を保っています。そうでないときっと嫌なやつになってしまうだろうし、自分の能力(自信)が絶対的でない以上、嫌われたら終わりというか、いずれにしても周囲あっての自分なので、結局、謙虚さみたいなのが一番大事なのだと大人になるたびに思います。

というふうに、この先このまま無事に過ごせれば幸せな一生になるであろうことは見えていて、その代わり何か大功を成すこともないだろうことを考えるとちょっと物足りないという感じもするのですが、あるとしても今の会社で偉くなるぐらいしか思いつかないし、今の雰囲気だとあんまり偉くなる感じもしない上、そこを目指すとまた心の平穏が脅かされる可能性もあるし、そもそも偉くなってもあんまり大功でもないというか、なんというかぐるぐるしてしまうので、とりあえず今は少しずつ自分の自信の相対性を高めていくしかないなあと。つまるところ自分磨きをしてイイオンナになりたいと思います。


Posted by 堀田 on 11月 20th, 2016 :: Filed under 日常

異種

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最近、動物が好きです。

大人になってからなんですが、動物全般にすごく興味が出てきていて、旅行など何か遠出をするときはだいたい動物園や水族館、ワニ園などに行っています。写真は伊豆の動物園で挨拶したキリン。

動物のどこに興味が湧いてきたかと言うと、まずその種類の多さとへんてこな形状でしょうか。キリンとか象とか見慣れている一般的な動物でも、改めて首や鼻の長いのを見ると、なんだこれは!という気持ちがむくむくと出てきて、なんかずっと見ていられる感じです。動物園とか博物館に行くと、名前も聞いたことない、ドリルみたいなぐりぐりした長い角が生えている鹿みたいなやつとか、骨盤みたいな角が乗っかっているトナカイとか、いやー立派だなあ、と思わせられるようなマイナー動物もたくさん居て、本当にその種類の多さにびっくりします。

おそらく進化の過程でそういう形になっていったんでしょうが、理由は分かりませんが、それが合理的だと思って彼らはやっているわけで、本当、彼らを見るたびに一番頭が悪いのは人間なのではないかと思えてきます。動物は基本的に本能で、生きるために最も合理的と思われる選択肢を選んでいるのに、人間だけ、あれこれ悩んで、どうしてそうなるの的な間違った判断とかもしちゃうわけで、まあ結局感情ってやつがそういう非合理的な判断を導いてしまうんだよなあ、人間だものなあと、みつをのようなことをぐるぐる考えながら動物を見て回っています。まあ単純に動物よりも難しい判断を迫られているのはあると思いますが。

ただこれ、動物たちが総じてかわいいのが大前提にあるのでこれだけ受け入れられるのですが、虫は本当にダメです。生物の多様性という意味では、虫だって受け入れるべきなのだと思うのですが、もう見るのも嫌だし、なんなら気持ち悪いという理由だけで殺そうとするし、動物だって、近所でうろうろしてて角で威嚇されたり、部屋に入ってきてうんこでもしようものならマジ勘弁してくれとなりそうだし、そういう面では、僕の言っている動物好きなど薄っぺらいものだなーと、不必要に自虐的になったりします。

異文化も異種も受け入れるというのはなかなか難しいものなので、やはりもののけ姫のように子供の頃から慣らしておくのがいいというか、僕も小さい頃にもっと動物に興味を持っていたら、動物の研究をする道を選んでいたかもしれません。先日の国立科学博物館は高校生以下無料となっているのも、知識・科学の継承や優しい心の育成という意味で本当に意義深いことなのだと思いました。

他の国の宗教やら文化も早めに触れて慣れさせておいたほうがいいだろうけど、三角関数やら逆上がりやら、漢字やら絵やら音楽やら、教えなきゃならない内容って他にもたくさんあるだろうし、それが本当に教えなきゃならないかどうかも含めた優先順位付けも大変だし、本当に教育というのは一番難しい分野だなあと思います。


Posted by 堀田 on 11月 13th, 2016 :: Filed under 日常

科学博物館

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これは国立科学博物館のパンダプレートです。

先日、妻に誘われて上野の科学博物館に行ってきました。博物館というのは実はあまり馴染みがなかったのですが、行ってみてなかなか楽しいところだと思いました。宇宙の起源とか、生物の多様性とか、そういうのが好きなので足さえ疲れなければ何時間でも居られる感じです。

こういうのが好きなのもあるかもしれませんが、僕が会社の飲み会などでたまに熱弁するもあまり理解してもらえない理論があって、仕事をする上で問題や困難にぶち当たった後輩などに「究極的には光の速さだけが一定だから」といったザキさんみたいなことを言ってポカンとされることがよくあります。

僕も言い方が良くないと思うのですが、つまり言いたいのは、問題にぶち当たったときに、ああ嫌だとか、どうしようとか、悩んだり迷ったりするのもいいけれど、解決するためには、いま何がどう問題なのか、もっと具体的に言うと、誰が何を言っているのか、それが誰の意見とどう対立しているのか、それのどの部分がどう問題なのか、といった原因を細かく追究して問題点を明らかにし、それを解決する選択肢を並べ、決定権を持っている人は誰なのかを会社や社会のルールに照らして調べて決裁を仰げば、だいたいのことが解決するというか、少なくとも個人で思い悩むことはない、ということが言いたいのです。

つまりつまり、論理的に物事をなぜなぜと掘り下げていけば、問題点も解決策も(解決策が全くないことも)見えてくるし、それは究極的に突き詰めると、世の中は全て原子でできているとか、宇宙の起源とか、相対性理論みたいな話になるわけだから、ある意味、「論理的に物事を考えて事実を追究すること」のシンボルとして「光の速度だけが一定だ」みたいな話をしますが、ちょっと自分でも飛びすぎているなと反省します。

とまあ、ここまで解説したとしても「それは正論だ」とか「そんなうまくいかない」なんて言われます。主にその理由を問うと「人間は感情の生き物だから」みたいな背景なのですが、確かにどう正論で通したって嫌なものは嫌とか、好きなものは好きみたいな「愛」や「憎しみ」といったものはあるけれど、それはそれで理解できるというか破綻していないというか、この人が嫌だといっているのはただこいつが嫌いだからだ、という論理を明確にしてあげれば、じゃあどうすればいいか、みたいなのは見えてくると思います。「人間は感情の生き物だ」みたいなことを言う人はちょっと思考停止しているだけなんじゃないかと思います。

いずれにしても、そうやって問題の原因を分析していかないと、ともすれば自分のせいでうまくいかないとか悩んだり、誰も味方がいないような寂しい気持ちになったりして負の感情に支配されてしまう可能性があるので、しっかり何が悪いのか、自分が悪いなら謝ったり正しいアクションをすればいいし、自分が悪くないのなら悪くないで主張できるし、困ったときほど感情を排除して事実のみ追究すればいいということが言いたいんですが、なかなかうまく伝わりません。

みんな悩んだら科学博物館に行けばいいのに、と思いました。


Posted by 堀田 on 11月 6th, 2016 :: Filed under 日常