ご来場ありがとうございました。
昨日、リキマルサンシャインが無事閉幕しました。ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。あの空間でしか生まれないであろう感動を、みなさまと共有できて大変嬉しく思います。次のいい場所が見つかりますように。
リキマルはエチュードが主体なので、目の演技も重要だろうという事で、昨日は眼鏡でなくてコンタクトにしました。正直、お芝居の本番の日以外はもうほとんど眼鏡なので、ワンデーで買っているコンタクトがずっと使われずに置いてある。
理由としては、とにかく眼鏡が楽チンだからに尽きるのだけど、もうずっと眼鏡だから、例えば会社の後輩とかは「堀田さんは眼鏡の人」という印象になっているはずで、変にコンタクトをすると、今日は何かあるのかしら、何か勝負の日なのかしら、とか思われるのではないかと疑心暗鬼になってしまうからである。
完全に自意識過剰だとは思うのだけど、でも実際「今日はコンタクトなんですね」とか聞かれたら、「うん、ちょっと気分でね」としか返せないので、なんかそれがオシャレしてるみたいで恥ずかしいのである。いやオシャレしたっていいんだけど、でも別にオシャレになってないなし、その気分って何やねん、みたいに自分で思ってしまうので、なんか「付けなければならない理由」が明確に無いとコンタクトを付けられなくなってしまった。
大人になるにつれて、そうやって自分の作った制限にがんじがらめになって自由に生きられなくなってしまうのでしょう。そういう意味では、エチュードはお題や状況によっては、そういう制限とか超越して何かをやらなければならない時が来るからいいですね。普通じゃくまのプーさんとかやらないから。
Posted by 堀田 on 10月 29th, 2013 :: Filed under
演劇
今日は。
柴田です。
リキマルサンシヤイン無事終わりました。ご来場ありがとうございました!
たった一回きりの公演というのは初めてでした。
まるで夢のようなスピード。
しかしこれでコレドが最後となるのは物悲しいですね。
なんか次、いい場所がありましたら教えてください!
酒が飲めて、客席は50くらいで、バタバタできるところ!
また皆様にお会いできることを楽しみにしております!
あの、解散したわけじゃないですからね。
Posted by 柴田 on 10月 28th, 2013 :: Filed under
日常
昨日も雨が強かった。
小さい頃から台風とか大雨とかの日の夜に、雨音や風音を聞きながら布団で寝るのがすごい好きだ。「おー、さむさむ!」とか、「おー、怖い怖い!」なんて言って、自らの安全を実感する行為がたまらなくいい。
僕にとって本当に家ってのは大事で、例えばキャンプで外で寝るとか言うのも極力避けたい。とにかく寝るのが大好きなので、悪条件で寝るというのは、グルメがすごいマズイものを食べさせられるのと一緒なのである。
僕もすっごいうまいもんを食ってから、安全な家のベッドで寝ると本当に幸せなので、これを死ぬまで毎日続けたい。
Posted by 堀田 on 10月 26th, 2013 :: Filed under
日常
濃い味が好きです。
今日はお昼ごはんで、久々にファーストキッチンに行った。ファーストキッチンに行く理由は決まってポテトを食べるためである。
僕は濃い味が好きな方で、ポテトも普通の味よりもフレーバーポテトみたいにさらに味がついている方がいい。いつもだいたいチーズ味を頼むのだけど(濃いから)、今は「3種の贅沢チーズ味」とかになっていて、願ったり叶ったりである。実際食べたら本当にうまくて大満足の昼食でした。チーズが濃くて、心底おいしいと思った。
濃い味と言えば、ソースはウスターソースよりもとんかつソースとか中濃ソース派である。で、今日たまたま聞いた話で、ソースの原材料が主に野菜と果物だと聞いてマジでびっくりした。野菜と果物を煮詰めるとソースになるらしい。全然信じられない。
この知識を誰かに自慢したいのだけど、「そんなのは一般常識だ」と会社の人に言われてしまった。だからここにだけ記しておこう。ここは王様の耳はロバの耳に出てくる穴のようなものだから。
Posted by 堀田 on 10月 25th, 2013 :: Filed under
日常
写真はイメージです。
うちの会社では社長ほか経営層が、若手を中心とした社員たちと交流を深めることを目的とするコミュニケーション会が毎月開かれていて、最上階のパーティスペースで立食形式でやっているらしい。いままで僕は不参加を貫いていたのだが、今日は出なくてはならないことになってしまい、行きました。
行ったはいいけれど、社長はいたけれど、特にコミュニケーションを取るでもなく、ピラフをぱくぱく食べて、いそいそと仕事に戻ってしまったが、帰りながら、偉くなってしまうのは可哀想だと思ってしまった。
彼らは純粋な気持ちでこのようなパーティを企画し開催しているのだろうけど、そして別に僕らも彼らが嫌いな訳でもないのだけど、なんとなく面倒で、なんとなく煙たがられてしまっているのだ。だってコミュニケーションとか言われても、社長と雑談したいわけじゃないし。
勘違いしてもらって困るのは、若手の忌憚の無い意見を聞きたいのであれば、このようなパーティ形式では無理なのである。社長に話そうにも、自分の置かれている状況などが社長とかから見たら細かすぎて、それを説明するのにすごい時間がかかってしまって、結果、面倒になっちゃうのである。やるなら普通に仕事中にふらりとやってきて「30分くらい話せる?」とかいってランダムに社員を掴まえ、「君は何の仕事してるの?」くらいのところから入ってほしい。そんな、ワイワイガヤガヤうるさい立食パーティでまじめな課題提起なんてできないだろう。
なので、当たり障りのない話しかしないし、こっちも一応ニコニコしてそれなりに会話をするのだから、それで「コミュニケーションを取れた」とか満足されても、それって全然意味ないんだよなあ。裸の王様というか、誰もそういうのを指摘もしないから、なんだか可哀想な感じもする。
要はコミュニケ—ションを取ること自体が目的になっちゃってて、そもそも何のためにコミュニケ—ションを取りたいのかっていう話だと思うんだけど。社員の話を聞きたいってのは嘘じゃないと思うけど、やり方がうまくないというか、途中からやることが目的になって満足してしまっているというか、そんな感じがして寒いので、いつも不参加なのです。ピラフはおいしかったです。
Posted by 堀田 on 10月 24th, 2013 :: Filed under
仕事
昔のものまね王座はおもしろかった。
歌番組はすっかりなくなったけど、ものまね王座歌合戦的な番組はよくやっている。あんまりまともに見てないけど、昔に比べて全然面白くなくて残念である。神無月さんを除いて、最近のはものまねというよりは「ネタ」ばかりで、正直全然似てないのも多いし、レパートリーも、いつもの人がいつもやっているやつを、シチュエーションを変えたり、コントみたいにしたりしてるだけで、結局ものまねとしては全然深まっていなくて、複数人が「コラボ」とか言ってるのなんて、もう全然ものまねじゃなくてただの寒いコントである。
「細かすぎて伝わらないものまね」も最初はすごく面白かったのに、途中からネタ合戦になってしまって、全然「細かすぎて」じゃなくなってしまい、本当に残念だった。あれは、マニアックな目線でなければ見つからない細かい動作(実際にやっているもの)を真似るから面白いのに、途中から「こういうことやりそう」という妄想の世界になってしまって、完全に趣旨とズレてしまっていた。それはものまねじゃないって!
昔はコロッケとか清水アキラとかが、それはもうずっとお腹抱えて笑ってしまうくらいのすばらしいネタを、歌に合わせてどんどん繰り出して来て、本当に面白かったものである(ビジーフォーの外人のネタはほとんど分からなかったけど)。あれはちゃんと歌を歌いながら「ショー」を見せてくれていて、ものまね自体にすごく力があったのだと思う。だから定番のものまねでも何度でも面白かった。ほんと、あの頃のものまね王座に戻してほしい。
ちなみに、僕が人生で最初に観に行ったステージは、確か長島スパーランドというところでやっていたコロッケさんのものまねライブだったんだけど、これが本当に面白くて、ずっとゲラゲラ笑っていた。熱いやかんをステージの上において、「燃えよドラゴン」の曲を流して、「あちゃー!」って言ってるだけのネタとかあったけど、あれは本当に、本当に面白かったなあ。
Posted by 堀田 on 10月 23rd, 2013 :: Filed under
考察
会社の温泉旅行に行ってきました。
最近元気が無いからみんなで温泉に行こう!という鶴の一声で決まった今回の旅行。僕も入社して10年になりますが、初めての経験でした。だからという訳ではないが、いつもは写真なんて全然撮らないのに、なぜか今回は100枚くらい撮っていた。
上の写真は僕のお風呂上がりのものですが、100枚ある写真のうち、上品なのはこの一枚くらいで、あとは本当におじさんの裸しか写っていない。諸先輩や後輩らの幹事団がバスやホテルの手配から宴会場でのゲームの数々などやってくれたのだが、これが大変よく練られていて、本当にこういうのは馬鹿にできないというか、尊敬に値すると思った。上下関係がある程度ある中で、宴会を盛り上げるのって本当にすごいと思う。
特に僕は入社以来、飲み会からイベントから、ほとんど幹事なるものをやっていなくて、これは別に僕が悪いというよりは周りが僕に幹事をなぜかやらせないから、そのまま何も分からないうちに10年経っちゃったのである。今でも僕の後輩と一つ上の先輩とかが幹事に指名されたりしてんだけど、絶対に誰も僕を指名しない。何かすごい気を遣われているというか、「こいつは絶対面倒くさがる」とバレているというか。
いや、思うに演劇とかやってるから宴会芸みたいなものに対して、ちょっと一歩引いてしまうというか、馬鹿になりきれないというか、そういう態度がちょっと透けて見えちゃってるのかもしれないなあ。いや、こういうのは馬鹿になってやったほうが絶対クオリティの高いパフォーマンスができるんだけどね。それは全然馬鹿じゃないし。
とにかく、忙しい仕事の合間を縫って宴会の準備をし、当日はきちっと段取りよく回して宴会では大いに盛り上げ、一段落したあとで幹事のおじさんがタバコをふうーーーっと吸ってまたゲラゲラ笑っているのを見て、本当にこの人たちはすごいなあと感心し、自らの小ささを再認識したのであります。
Posted by 堀田 on 10月 19th, 2013 :: Filed under
仕事
「よくわからない人だ」と言われることが多い。
先日、大学で講義する機会があったのだが、その時もそのようなことを言われた。
まあそれは別に何とも思わないのだが、そのような時、よく思う。
僕も、僕のことがよくわからない。
わからないし、もはやそれは、どうでもいいとすら思っている。
かなりの昔に、自分をわかることなんて、諦めるというか、放棄している。
というか、むしろみんなに聞きたい。
みんなは実際、自分のことってわかっているのか?
僕は、自分のことなんてやつは、一生かかっても、絶対に、わかることはない、と思っている。
だって、単純に自分の身体を構成している細胞だけで考えても90%くらいは見たことがないというか、よく知らないわけだし、脳みそだって、現代医学をもってしても、ほとんどが解析できていない。
そんな状態で、自分のことなんてわかるわけがない。
そりゃあまあ、適当な言葉で型にはめて、なんとなくわかった気になれたりすることもあるけど、そんな単純じゃないっていうか、それで自分の全てを示すことなんてやはり不可能だ。
だから僕は、他人のことも正直、よくわからない。
その辺は、なんかもう、ぼやっと、なんとなくで判断して、ものすごく適当に生きている。
でもまあ、それでいいとも思っている。
人間なんてそんなもんだ。
だから僕は、脚本とかを書く時、人物の設定っていうか、こういう性格で、誕生日いつで、こんなあれで、みたいなものを、一切つくらない。
いきなりシーンや物語というか、人物がどう動くかとか話すかをつくる。
我々は普段、他者のことを判断する時に、「あの人は誕生日いつで、こんな性格で〜」とか別に考えていない。
まあ、そういうのが絡む時は考えることもあるけども、基本的には、具体的な動きや発言からしか判断していない。
だから、それと同じように考えていく。
まあそうすると、かちっとした、いわゆるキャラクターみたいなものにはなりにくいんだけど、そんな、ミッキーみたいなマスコットじゃねえんだから、いわやる「キャラクター」って感じの人間なんてこの世にはいないだろう。
だから、人物像なんてもんは、不可解だったり、多面的だったりしていい。
それが人間というやつなわけだから。
上と関連して、学校ではだいたいこういったことベラベラ話すことにしてるんだけど、その考えを適用して作品つくった学生とか、後で先生にくっそ怒られてたりするんだろうな。
それに、こんなこと考えてたら、あんまりお金にもならないだろうし。
実際、まあ僕も先生には相当に嫌われていたし、ネットとかでくっそ叩かれることもあるしね。
でも、僕は僕の言ってることの方が正しいと、これに関しては、かなり信じてるね。
だからまあ、全然別のやり方でもいいんだけども、ぜひ周りのしょうもない意見とかは無視して、自分が正しいと思ったやり方で、ぜひみんな頑張って欲しいね。
まあそこにおける自分って、よくわからないから多少矛盾してるんだけどね。
Posted by 北川 on 10月 17th, 2013 :: Filed under
日常
よく忘れ物をします。
歳を追うごとに、モノを忘れて行ってしまう事が多い。傘とかはビニール傘であろうが、ちゃんとした傘であろうが、簡単に電車の中に置き忘れて行ってしまうので、もう買っていると本当に勿体ないから、基本は雨が降っていても傘を差さずに濡れて帰るというのを徹底している。
まあ傘は誰でもあるとして、前には自転車を忘れて行った事もあって、コンビニに自転車で行って買い物をした後、自分が自転車で来ている事を忘れてそのまま歩いて帰り、その後、2週間後ぐらいに自転車に乗ろうとしてやっと「あれ?」と気がついた。しかもそのコンビニは駅までの通勤ルート上にあって、毎日行きと帰りに自転車の目の前を通っているにもかかわらず全然気がつかなかった。自転車からしたら毎朝晩「おいおいおいおいおい!」って感じだったろうと思う。
しかも気づいたときは完全に「盗まれた!」と勘違いしてたし。こういうときはだいたい僕が犯人です。
Posted by 堀田 on 10月 16th, 2013 :: Filed under
日常
センサーに反応しません。
昔からずっとなんだけど、センサー関連の感度が悪い。自動ドアの前に立っても全然反応してくれなくて、ドアとキスしそうなぐらいまで近づいてしまうことがよくある。あとトイレの洗面所で、手を出すとセンサーが反応してお水を出すやつがあるけど、あれも何度やっても全然反応してくれないし、トイレで手を掲げると水が流れる系のやつも、何度やっても流れないときがあったりして、もう流すのくらい普通のレバー方式にしてくれよと思ってしまう。
もちろんうまく反応してくれるセンサーもあるので、要はモノによって、何に反応するかが違っていて、僕だと反応しにくいものがあるのだと思う。物理的にいるかどうかはさすがに反応してくれていると思うので、反応されていないとすると体温とかだろうか。それならまだいいけど、なんかドラゴンボールのスカウターみたいなので、ゴミ扱いされてたら嫌だ。
Posted by 堀田 on 10月 14th, 2013 :: Filed under
日常
飲み会にて。
男A、突然立ち上がり、
男A「学生注目!」
みんな「なんだなんだ!?」
男A「…いつ飲むの!?…今でしょ!」
みんな「(手拍子と共に)はい!はい!はい!はい!はい!はい!男Aに、お・も・て・な・し!お・も・て・な・し!」
男A、注がれたビールを一気飲みし始める。
みんな「じぇじぇじぇ!じぇじぇじぇ!じぇじぇじぇ!じぇじぇじぇ!」
男A、飲み干す。
みんな「じぇじぇじぇーーーー!?」
拍手が巻き起こる。
と、女B、突然立ち上がり、
女B「学生注目!」
みんな「なんだなんだ!?」
女B「いつ飲むの!?…今でしょ!?」
男A「女Bに、倍返し!」
みんな「倍返し!倍返し!倍返し!倍返し!」
女B、注がれたビールをあおる。
Posted by 北川 on 10月 11th, 2013 :: Filed under
日常
思い込みが激しい。
自分のよくないところを一つあげるとすれば、思い込みが激しいときがままある。分析的思考はあるほうなのだけど、「ちゃんと調べる」ということはあまり好きな作業ではないので、こうだと思った事は、実は情報が足りなかっただけで、違っていた、なんてことはよくある。限られた情報の中で、自分の中では理路整然と論理立てられているだけに、大声で間違った事を言っている可能性もあって、これはやっかいだ。
かと言って、限られた時間や限られた情報の中で、ある程度見切り発車的に決めて行かなければならないことも多々あって、間違っていても仮説を立ててどんどん行動していかないと、正しいかどうかも分からないじゃないか、という思いも一方である。慎重になりすぎて大人しくなってもねえ、と。
でもそうやって仮説と検証を繰り返して得て行った経験値を、相手に押し付けてしまったりして、それもよくないというのもわかる。結局、常に謙虚に、見聞を広げ続けろという事なんだろうけど、やっぱり興味の無い事とか、全然知らない人の事、全然知らない世界の事について知るのは僕にはすごく苦手なことで、そこが大人になっていくにつれ重要なんだとすると、正直今後の人生について困ってしまう。
ベンチャー企業の社長とかが、この手の話で、ああだこうだとか、ああしようこうしようとかFacebookとかですごい語っているけど、確かに彼らは見聞を広めるという事にすごくどん欲なように見える。そしてああいう感じには、なんとなくなりたくない。もう32歳ですけど、これから一体どういう人間になって行くんすかねえ。
Posted by 堀田 on 10月 11th, 2013 :: Filed under
考察
哲学の話です。
今、ソフィーの世界と言う本を読んでいるのだけど、その本によれば、赤ちゃんはいろいろなものが新鮮だから、世界のいろいろなものにびっくりの連続なのだが、成長するにつれ、どんどん世界に慣れてしまって、大人になる頃にはすっかり驚く事はなくなってしまう。逆に、ある日お父さんが空中浮遊したとしても、赤ちゃんはそんなに驚かないけど、お母さんが超絶びっくりするものであると。哲学者たるものは大人になっても赤ちゃんのように様々な事に驚き、つまり不思議がり、真理を探究するべきというお話。
それを読んで思い出したのだけど、上述のお父さんの空中浮遊でお母さんが驚愕するのと同じ感覚が僕にもあって、それはアルパカを見たときだった。アルパカが急に流行りだした頃、僕はネット上の画像を見て、これは完全に合成による想像上の生き物だと思っていた。こんな動物が本当にいたとしたら、もっと大昔から話題になっているはず、という思考が自動的に入っていて、全く疑う事なく、これは空想上の生き物と思っていた。
ところがある日、Youtubeでアルパカの軍団が向こう側からこっちに向かって走りよってくる動画(まさに上の写真のやつ)を見たときに、「なんだこいつはあ!!!」と超絶びっくりした。あの感覚は、久々に赤ちゃんと同じような感覚を味わえたのだと思う。あれくらいの衝撃が、赤ちゃんには日々起きているとすると、毎日が刺激的で大変だろうなあと思う。犬とか見て「なんだこいつはあ!!!」とかシャンプーしてるお父さん見て「ぎゃーーーー!!!」とか思ってんのかなあ。
Posted by 堀田 on 10月 9th, 2013 :: Filed under
考察
慣れてなくて、一回違うメールでブログ更新しちゃいました。
重複しちゃってるかも。
iPhone5sに変えた。
それに伴い、iOSが7に変わったが、超使いにくい。
無駄なアクション多いし、反応遅いし、超使いにくい。
というか、超ダサい。
全体的になんかカラフルでごちゃごちゃしてるし、デザインも「アメリカ」って感じでバタくさいし、とにかくもうくっそダサい。
なに考えてんだろう、これ。
ほんと終わってるわ。
今後Apple製品ってこんな感じになっていくのかな。
だっせーし詰めが甘いし、もうだめだわ、これ。
変えなきゃよかった。
5cとかこれ誰が買うんだよっていうだっせー色ついたやつ出してておかしいなとは思ってたんだよ。
5sもゴールドとかわけわかんないし、そもそも黒のやつもグレーの入り方がダサいんだよな。
いやー、失敗したわー。
大阪のおばちゃん以外喜ばないだろ、これ。
まあ、偏見だけども、そういうイメージね。
いやー、しっかしだっせーわ。
かっこいいデザインなんてそうそう出てくるもんじゃないんだからさ、毎回コロコロ変えないでいいんだよ。
ほんとわかってねーな。
こうやっていいアイデア出なかった時は、適当に中身の部品とかだけ最新のにしときゃいいんだよ。
もうなんか、その、進化した風を無理矢理装う感じとか、そういう根本的な考え方自体が、あ、ここもうだめだ、終わってきてるわって感じ出てるよ。
いやー、ほんとゴミみたいなもんつかまさせられた気分だよ。
やっちゃったなー。
Posted by 北川 on 10月 9th, 2013 :: Filed under
日常
一度に二つの事ができない。
何かをしながら別の何かをするというのがすごく苦手だ。例えば、家で音楽をかけながら掃除をするとか、洗濯物を畳むとか、本を読むとかが全然できない。あとテレビをつけっぱにして何かする、というのも気が散ってあまりやらない。BGMを流すという事が基本的に無いので、僕の家はいつだって無音である。とっても静か。
こういう傾向は男性に顕著で、女性は割と問題なく同時処理できるらしい。同時通訳に女性が多いのもそういう理由があるのかしら。
あと携帯電話を見ながらごはんを食べるのもできないし、本を読みながらごはんを食べるのもできないし、音楽を聴きながらごはんを食べるのも無理。外食とかで注文していたものがきたら、携帯も本もイヤホンも全て外して食事に集中するので、ひとりで飯を食っているとあっという間に終わってしまう。でもごはんを食べながらテレビを見る事はできる。
それと何故か音楽を聴きながら仕事するのは全然できたりする。資料作っているときに音楽なってるのすごい雑念だと思うんだけど何でだろう。この「イケる組み合わせ」のパターンが全然分からないよ!
Posted by 堀田 on 10月 8th, 2013 :: Filed under
日常
将来、語尾に「~~じゃ」とつけるだろうか。
よくおじいちゃんは「~~じゃ」と言うイメージがあるけど、実際自分が歳をとったらそういう言い方をするかというと絶対そういう言い方はしないと思う。先述したとおり、身の回りにおじいちゃんがいないのでよくわからないのだけど、今の時代でも「~~じゃ」って言ってるおじいちゃんっているのだろうか。これはなんていうか、ただの方言であって、都会のおじいちゃんは既に使っていない気がするし、逆に地方の若者は使ってる気がする。
同じく自分がおじいちゃんになったら自分のことを「わし」というかというと言わない気がする。多分「俺」とか言うのだと思うんだけど、おじいちゃんで自分のこと「俺」って言ってる人もあんまりイメージがないと言うか、じゃあそもそも今のおじいちゃんたちは自分のこと何て言ってるんだろうか。
自分の父方のおじいちゃんは、ぼくが幼稚園くらいのときに亡くなったし、母方のはぼくの前では「おじいちゃん」と言っていたから、孫がいないときに何て言ってたのか分からない。もしかしたら歳を重ねると「わし」って言うようになるんだろうか。これはちょっとありえる気がしてしまう。
ちなみに。既に30歳を過ぎた頃から「僕たち」とか「俺たち」とか“We”を表現する際には、「我々」という言い方をするようになっている。まぁこれは多分ザキさんからの影響だけど。
Posted by 堀田 on 10月 7th, 2013 :: Filed under
考察
なんかよくネットのサプリメントの広告で、「50代ですが、すぐ萎えてしまって・・・・・・」「まだまだ、40代でも現役でいたいから」みたいな、明らかにチンコがたつかどうか、ということを言ってるのに、さもそうじゃありません、みたいな顔をしているやつがあるでしょう。ああいうの、なんか腹立つんですよね。
以上です。
Posted by 徳尾 on 10月 6th, 2013 :: Filed under
日常
意味がないと思う。
CMでやってる東進かどこかの高校生や中学生の統一試験。一年生から三年生まで同じ問題を解くというものだが、正直それは全然意味がないと思う。
習ってないものは基本的に解けるはずがないし、こんなのは塾とかで先行的に勉強してる下級生が、俺はこんなにもできるんだぜと自慢するためだけにあるようなもんである。
受験自体は浪人生などの上級者か同期との戦いなのだから、できる下級生と比べても意味がないし、下級生からしたら将来の浪人生たちとの戦いのシミュレーションにはなるかもしれないが、習ってる範囲とかが違う時点であまりやる意味がない。
だってどう考えても、線形代数とか、数列とか、習ってもない場合は解けるはずがないし、英語とかも結局帰国子女が学年を超えて圧倒的有利なわけだし、歴史なんて知識として知らなければどんな天才だって分かるはずがない。やっぱりこれは、塾とかで先に勉強している下級生が上級生よりいい点を取って自慢しまくるためだけの仕組みだと思う。そんな余興に付き合う必要はない。
CMで体育館に集められた学生が内容を聞いて「これは…(ゴクリ)」みたいな顔させられてるけど、いやいや、全然意味ないから、と冷めた目で見ている。
Posted by 堀田 on 10月 6th, 2013 :: Filed under
考察
嗚呼、愛しのニコル。
僕が愛してやまないKARAのニコルが、脱退する事が決まったらしい。理由は今のところ何か分からないので何ともいえないのだが、いくらKARAが存続しようが、ニコルがピンで活躍しようが、絶妙なバランスが崩れてしまう事は間違いない。理由はともあれ、そういうベストな状態を崩したその先に、ベストを超える結果は決してない。
KARAは5人だからよいのであって、ニコルは4人といるからベストなのである。これはもう分かりきっている。KARAに於いては、5人それぞれが全く被らない上に、お互いを補完しあいつつ、強力な光を放つという黄金比にあったグループなのに、理由はともあれ、それを崩してしまうというのは本当に勿体ない。やっちゃいけないことってのがあるのである。
何度も言うけど、「この組み合わせがベスト」というのは明確に存在する。世の中には「正解」というのが必ず存在する。不正解でない答えはたくさんあるだろう。でも本当の正解というのはきっと一つだ。本当の正解の前では、不正解でない答えも、やはり不正解なのだ。KARAはあの5人が正解だった。ニコルは決して正解が見えていない愚かな女ではない。その上での選択ということであれば、きっと何か重大な理由があるに違いない。恨むべきはその理由である。
罪を憎んで人を憎まず。ことわざは正解の集まりである。
Posted by 堀田 on 10月 5th, 2013 :: Filed under
考察
お悔やみ申し上げます。
先日起きた事故で、踏切で倒れている老人を助けようとして40歳くらいの女性が亡くなった件。こういうニュースを観てまず思ってしまうのは「なんでそんなおじいちゃんを助ける必要があるんだ?」ということだ。5歳とか、20歳とか、そういう若者であればまだいいけど、70代とかで、しかも線路で横たわってしまっているような人を助けようとして死んだなんて、もう申し訳ないけど全然同情できなかったりする。
これは助けようとした人を非難しているというよりは、どちらかというと、老人の生に対する僕の優先度が低いからだと思う。こういうこと言うと冷たいやつだと思われると思うけど、もう70歳とか超えている人は、遅かれ早かれ死ぬ訳だから、みたいな発想があって、例えば遭難して亡くなった人のニュースが流れたとき、その人が30代とかだと「あらー、まだまだこれからだったろうに」と思うけど、70歳とかだと「ああ、まだよかったな」っていつも思っている。別に老人たちの命を軽視しているつもりではないけど、若い命から比べると、優先順位を下げてしまっているという事である。相対的な話で。
誰しもそういうところあるのかもしれないけど、僕は特に早くにおじいちゃんとおばあちゃんを4人とも亡くしてしまっているから、あまり身近に老人がいなくて、いまいち悲しいイメージがしないからかもしれない。少なくとも、踏切で遮断機が降りてる状態で70代のおじいちゃんが横たわってたら僕は絶対に助けに行きません。
Posted by 堀田 on 10月 4th, 2013 :: Filed under
考察