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北本

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仮に、公衆便所の扉とかに「北○仁くそ」と書かれているのを僕が見つけたとする。
まず間違いなく、自分のことが書かれていると考えるだろう。
では、「北山仁くそ」の場合はどうだろうか。
「自分のことを書かれている可能性がある、いや、ほぼ間違いなく書かれている」と考える。
「北田仁くそ」の場合はどうだ。
これも北山同様、自分のことの可能性が高い、と考える。
それでは、「北本仁」はどうだろう。
この場合はおそらく、「北本さんかわいそうだな。俺と名前似てるけど、別人でよかった」と考える。

北川仁は、北山仁と北田仁にはなれるが、北本仁にはなれない。
北川仁の限界は、北本仁にある。

ではなぜ、北川仁は北山仁や北田仁にはなれるのに、北本仁にはなれないのか。
これは、北川という字をうまくいじると北山や北田にはなるが、北本には修正液でも使わないと無理、というのがある。
まあ当たり前だ。
だが、他にこうも考えられる。

僕は今まで生きてきて、北本という名前の人を見たことはあるが、北山や北田という名前の人は見たことはない。
北山や北田という人はこの世にたくさんいるとは思うが、僕は今のところ聞いたことがない。
しかし、北本は聞いたことがある。
だから僕の中では北本という名前は、僕とは別の人物を指す。
だから僕は、北本仁にはなれない。

我々は、自分以外の誰かになることは絶対にできない。
しかし、他の誰でもない、好きな自分にであれば、いくらだってなることができる。

北川仁にとらわれるな。
北本仁に憧れるな。
おそれず、ねたまず、無限の北山仁、北田仁となっていけ。


Posted by 北川 on 3月 31st, 2011 :: Filed under 未分類
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