堀田善太郎
祖父について。
九州の帰りに実家のある名古屋に寄っている。
明日は父方の祖父の23回忌なので問答無用で呼び出されている。
母は押し入れから古い掛け軸を引っ張ってきたり準備に余念がない。
祖父については僕が小学一年のときに亡くなったため、あんまり記憶にない。 何か話をした記憶もない。
覚えていることは、よく自転車でうちに遊びに来ては、母とお喋りして、たまに僕の髪を強引に切って帰って行ったくらいである。
あれは何だったのだろう。
せっかくなので祖父について両親に聞いたら、
今まで知らなかったことがたくさん出てきたので、
祖父・堀田善太郎の軌跡を、ここに残したいと思う。
どうやら祖父は小学校を卒業後、床屋に弟子入りをし、実際に今の僕と同じくらいの歳には自分の店を構えていたらしい。
全くの初耳だ。
やたら僕の髪を切っていたのは元床屋だったからか。
その後戦争で店が焼けてからは名古屋市の消防局に勤め、普通に消防士として働いていたらしい。かなりパワフルな仕事だ。
55歳で引退後も引き続き消防局で共済火災保険の販売やら集金やらを70歳までやって、なんか元気なまま亡くなったようだ。享年73歳。
祖父はとにかく元気だったようで、毎日自転車で2つほど離れた市から通い、毎日お昼にうちに来て母とお喋りしていたらしい(僕にはこの記憶しかない)。
しかも喋るのがとてもうまかったらしく、母の実家に来たときには、あまりにも話がうまくて最後は拍手が起こったほどだとか。
父が無口なのは祖父がとにかく喋る隙を与えなかったからだろう。
あとコーヒーを作るのがうまかったらしく、毎日母に振る舞うのだが、どんなに母が作り方を聞いても絶対教えてくれず、キッチンから追い出されたらしい。
教えてくれてれば今頃おいしいコーヒーが飲めたのに残念である。
また毎日昼にくるのに「昼飯は食べない主義」と言うため母も困り、何も出さないわけにもいかないから「じゃあ、アンパンとうどんを交互に出しますね」と母が言い、「それでいい」ということで実際アンパンとうどんを毎日交互に食っていたらしい。
母の提示したのが何故アンパンとうどんの2種類ローテーションだったのかは謎のままだ。
もっと混ぜりゃいいのに。
ちなみに、堀田家の家系は分かっているところでひいひい爺ちゃんに当たる堀田半十郎が初代。二代目は不明。男の子が生まれなかったため祖父が養子として来たらしい。よって僕は半十郎の血は引いていない。
で三代目が服部家から養子となった祖父・善太郎で、四代目が父・幸男、そして尋史は五代目ということになるらしい。
祖父が何気にかなり個性的な人だったようなので、もっと大人になってからちゃんと話をしたかったなぁと思う。
消防士時代の話とかおもしろそうだ。
多分拍手が起きたのも消防士の話なんじゃないかと思う。
Posted by 堀田 on 6月 12th, 2010 :: Filed under 未分類
You can leave a response, or trackback from your own site.
6月 12th, 2010
自分の家の歴史を知るのって いいことですよね。うちは もう わかる人がいないかなぁ…
6月 12th, 2010
意外にわからないもんですよね。
僕はモブログにメモったんで、代々語り継がれるはず。
今、喪ブログって変換された。
さすが23回忌。