着信音
10月に行った釜山国際映画祭の体験レポートをPFFのサイトで書かせていただきました。
気が向いたらぜひどうぞ。
http://pff.jp/jp/ff_report/report023.html
それとは全く関係ないが、いま喫茶店で書類のまとめをしている。
で、横のヤンキーカップルみたいなのが、携帯が鳴る度にEXILEの曲かなんかが流れ、それをしばし口ずさんでから、電話に出るというのをやっている。
いや、時々こういう人を見かけるし、ひどいのになると、着信とか関係なしにEXILEかなんかの(たいていEXILEだ)曲を流して口ずさんでいたりするから、まだマシな方なのかもしれないけど、ほんとひどい話だが、こういう奴ってマジで心の底から、バカな奴らなのだと思う。
僕は、基本的に自分の携帯の着信音とかが人前で流れるのがすごく恥ずかしい。
できるだけ聞かれたくない。
舞台に立ったり、映画を見せたり、ブログで色々考えを書いたりしているから、そんな恥ずかしいことなんてないだろう、とか思われるかもしれないが、それは表現と人間というものを混同した誤った考えだ。
だって、自分のプライベートな趣向のようなものを他人に知られることって、すごく恥ずかしいことだろう。
プライベートなことを語ることは、表現ではなく、ただの自己語りであって、つまりは自分というものを人に見せたいというただの自尊心の押し付けであったり、または、何かを表現しようとしている人からしたら、なんというか、種明かしみたいなもの、つまりは禁じ手なのだと僕は思っている。
だから、僕は自分のことを語っているようによく見せているが、実のところ自分のことなんて一つも語ってはいない。
僕がよく、あいつの本当のところはよくわからない、と言われるのはまさにそこだ。
この世には、色んな作品と呼ばれるものがあって、その中には、いわゆる「自分の身や魂を削って」つくられたものがよくあるけれども、基本的に僕はそういうものをあまりよく思ってはいない。
どれだけうまくつくられていたとしても、それは、彩りよく皿の上に盛られた、心の排泄物、つまりはうんこだ。
いちいち人に見せるものじゃない。
あの手の作品は、ただのナルシズム、またはかまってちゃんのあらわれなのだ。
自分を人に見せるのなら、せめて、血を流しながらケツから作品を出すのではなく、猿のうんこの中にコーヒー豆を入れておいて発酵させていい香りの豆として出したりとか、とにかくなんらかうんことバレないように調理して出すべきだろう。
もしくは、消化しないでそのまま口から出すかだね。
どちらにせよ、いちいちうんこだったとバラすべきではない。
そんなのくさいだけだ。
かなりそれてしまったが、とにかく着信音消さない人はほんと羞恥心がないな。
そんな、みんなが好きなEXILEをいちいち「俺聞いてます」って感じで周りに見せて自己主張しないで欲しいよな。
くだらなくて浅はかな個性なんて、そんなものいらない。
個性的な名前とか言いながら、みんな同じような名前の子供になっちゃってる、最近のうすっぺらい一部の親の思考と一緒だ。
個性的にしたいなら、まず当たり前のことをたくさん知るようにしないとだめだ。
ものを知らない人間の個性の範囲なんて、ゴッホとかの天才じゃない限り、猫の額くらいの広さしかない。
あと、そういうことを言うと、自分は天才だから平気、みたいになる人もいるけども、今の時代、天才だったらとっくに天才として有名になってるだろうから、そうだったらまあほんとに天才なのだろうし、そうじゃなかったらとりあえず天才ではないのだろうから、そこはまあ、客観的に考えて判断していくしかない。
とりあえず、僕は残念なことに天才ではなかったから、当たり前のことをたくさん学んで、おとなしく、しかし粘り強く闘っていくしかない。
ほんとは長嶋茂雄みたいに生まれたかったけどな。
悲しいことに、僕の親は長嶋茂雄の親ではなかったんだ。
Posted by 北川 on 12月 26th, 2011 :: Filed under 未分類
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