とくお組モブログ
いつも手元にとくお組

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若干酔っている。
昨日までは仏教の学会での発表があって、かなり忙しかったのだが、なんとか無事乗り切ったもので、それなりに気分がよく、いつもならためらわれることなのだが、今日は書いてしまう。
ネタバレ等はあまりないとは思いますが、僕はあらすじ等を言われても全く気にならないタイプの人間で、つまりはその辺の感覚壊れてしまっているもので、気になる方は読まないでください。

今日は、銀河ホテルを見た。
おもしろかった。
最初の五分間程度で、誰が見てもわかることではあるため、酔っていないといえないが、観客は物語から解放される。
どこを見ても、どこも聞いてもいい芝居ですよ、物語は追わなくていい芝居ですよ、こう宣言される。
そうなると必然的に観客は、前のめりに自身で情報を取捨選択することとなるし、芝居は個別のシーンのおもしろさ、すなわち、演出と俳優の演技に委ねられることとなるし、まあそれは、なんなら観客が何回もその芝居を見に来ることの契機となるしで、いいことであるはずだ。
しかし、これは何回も繰り返す類のものでは決してなくて、つまりは方法論としては実験的で本質とは離れた位置にあるものなわけで、そういった意味では、あらゆる会話が同時多発的に起こるリアルな演劇というものは僕の中では、基本、形骸化した、終わっているものではあるのだけれども、今回のような形式の下で行われるもの、すなわち、全体の形式ではなく細部への意識の下で行われる同時多発的な会話は、強い覚悟をもって行われるチャレンジであるし、それを賞賛しないことはあり得ない。
ちょっと違うし、伝わらないかもしれないが、僕の中ではカサヴェテスのイメージね。
大学の頃、美学科の授業で、学校を使ったイベントを何かたてろ、というレポートがあったが、僕は、学校全てを貸し切り、100人くらいの俳優が出演して、あらゆる場所で演技をして、観客が自由に動いてどこを見てもいい、つまりは全ての場所で、学校という一連の芝居が繰り広げられている、という企画を書いた。
これは、機会があったら今でもやりたいと思っているが、時間という制約のある、映画や演劇という芸術の中において、どの瞬間を、どの部分を、観客が自由に自身の意志で切り取って見てもおもしろい、というのは、一つの夢であり、理想である。

しかし、生意気な意見かもしれないが、僕の中で惜しむらくは、その点、すなわち、細部における最後の一手であった。
ラスト、僕は、多くの役者は、雨に濡れているべきだったと感じたのだ。
先日、テレビでやっていた思ひ出ぽろぽろを一瞬見たが(僕は実は思ひ出ぽろぽろの全編は、人生でいまだ見てはいない)、雨は、二人を車の中に閉じ込めるために降っていた。
今回の芝居において、雨は、物語のために降るのではなく、ラスト、濡れた髪の毛としたたる水の中、光を受けつつも、あるものを見るために、降るべきであったと、僕は思った。
濡れていない人間との対比も含め、これは、全てを包み込む強烈な細部となることは間違いないし、どこを見てもいい芝居であるからこそ、ここは欠かすことのできない一手となったのではないかと、僕は思った。
リアリティの問題としてではなくて、端的にラストの細部の美しさとして、これはこちらだったのではないかと、僕は感じた。
色々な理由もあるかもしれないので、誠に勝手な意見ではあるのだけれど。
しかし、そんな意見を言いたくなるくらい、様々な箇所を見、聞きし、豊かに楽しめる、お芝居であったと感じました。
時間ある方はぜひどうぞ。

酔った人間のしょうもないブログを最後まで読んでくださり、どうもありがとうございました。
では。


Posted by 北川 on 7月 4th, 2014 :: Filed under 日常
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One Response to “雨”

  1. ハナウサギ
    7月 4th, 2014

    学校内でのお芝居、とっても良いですね!
    観たいです!!(о´∀`о)
    友達とバラバラに行動して、「職員室の前でこんな話してたよ」「校庭でケンカしてる人いたよ」とか報告し合いたいです。

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