2014年09月30日

丁寧なプロセス
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[日常] ラーメン食べに行ったら巨漢に踏みつけられて死ぬとか、いったい誰が想像するでしょうか。


ボカしすぎだと思う。

自分の死因を教えてくれる神様がいるとして、「あなたは五年後、ラーメンを食べに行って、そこで巨漢に踏みつけられて死にます」と言われても、なかなか信じがたいと思う。

思わず、え、ラーメン、え? 巨漢に踏まれて死ぬんですか? と聞き返すだろう。

人は遅かれ早かれいつかは生涯を終える。それが病気でもいい、事故でも仕方あるまい、なんならワケあって自殺という線もあるだろう。いずれにせよ、それらは丁寧なプロセスで迎えられると僕らは信じて生きている。

願わくば、なるべく予兆みたいなものがあって、心構えがあって去りたいもの。大盛りにしようか餃子を付けようかそんなレベルのことを考えているところに、いきなり死の扉が待っているなんて、本当に恐ろしい。


日常 日時: 12:35

2014年09月29日

リバーシブル
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[日常] 今朝、上着を着替えているとき、「ああ、裏返しだ」と気づいてちゃんと直したはずなのに、それから3時間後、喫茶店で服を見たら裏返しだった。

これがよくあって困る。最初に「裏返しだ」と思ったのがそもそも間違いだったのか、直したと思って直っていなかったのか、どちらか分からない。

たまにリバーシブルの服とか、わざと逆さまの印字がしてあるおしゃれな服があるでしょう。あれは僕にとってはおしゃれとかどうでもよくて、間違いがないという点で助かるのです。世の中、全部リバーシブルでいい。


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「リニア中央新幹線の問題について」

世の中にはよく、「このまま進めて、もし○○になったら(ネガティブなこと)どうするの?」とだけ言う人がいる。あれって、計画を進めている側からするとすごく鬱陶しいというか、指摘だけかい、という感じだろう。小学校から会社にいたるまで、そういう人は一定数いた。

本人的には「杜撰な計画に対する抑止力」的なポジションに自己陶酔しているのだと思うけど、問題点を見つけて指摘するのは「調べ学習」の域を出ない。その意見で新しく未来が創られることはない。難しいのはそれらを解決しながら何かを作り上げていくことで、建設的なアイデアの無い人はいつまで経っても相手にされないだろう。

そもそも、問題がすべてクリアになって進められた計画など、今まであったのだろうか?


日常 日時: 17:59

足の人差し指
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[日常] 足つぼが好きです。

体全体のマッサージは特に好きでもないのだけど、足のマッサージは好きで、たまに仕事で疲れたときなどは、手頃なお店に揉んでもらいに行きます。

昔から思っていたけど、足の「人差し指」の感覚って、手の「中指」の感覚と同じですよね。つまり、他人に足の人差し指をつかまれて「今触ってる指なんだ?」と聞かれたらほとんどの人は「中指」と誤答すると思うのです、それぐらい間違える。じゃあ、足の中指を触るとどう感じるかというと「薬指」である。

そうしていくと指がズレてしまいには「俺、小指がない!」てことになるんですけど、そこは薬指を触ったときに「あれ、このまま行くと指が無くなるな」と気づいて、そこは薬指だと感じるのです。(あくまで個人差があるとは思いますが)。

まあ、ここまで書いてネットで見てみたら「キムタクのドラマであったよな」というコメントが目に入って、今さら感のある話題なのかと、なんだか暗い気持ちになっています。ロングバケーションです。


日常 日時: 00:25

2014年09月26日

荻原くんと萩原くん
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[日常] 萩野と荻野の区別が付きにくい。

先日も母がテレビを見ながら、泳ぐ萩野(はぎの)選手に対して「おぎのー!!いけ、おぎのー!!」と、絶叫しながら応援していたほど。絶叫してるけど間違ってるという。

ややこしいのは萩野と荻野の対だけでなく、萩原と荻原の組もあるからだと思う。

僕は一応、間違えないための目印を持っている。小学生のときに、クラスにいた小太りの荻原(おぎわら)くんという友達がいて、その子から手紙をもらったときに、自画像が書かれていたことがあった。

こんな絵。自分でもふっくらしていることを自覚していたようだ。

この荻原くんの太った自画像がヒントになり、そのふっくらした頬にけものへんを重ねることによって区別を付けることに成功したのだ。

荻原くんの頬に重なる文字が、”荻”だ!

これは荻原君との歴史がある僕にしか通用しない区別法なので、この日記は一体何なんだというものにはなったが、たぶん世間の人も自分なりの区別の仕方があるのだろう。


日常 日時: 17:32

2014年09月21日

演劇と支配
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[日常] とある演劇ニュース。

二ページ目いらんやろ。


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暴力をふるう指導者というのはどこにでもいると思うけど、演出家や監督の場合、体育教師などと違って「言葉を持っている」という点で、動機の質が違う。

つまり言葉で指導することも技術的には可能だが、あえて暴力という手段をとっているのだろう。おそらくそれは演劇(劇場)的な効果を狙っていて、暴力空間を共有させることによって支配関係を公に構築する意図があるのだ(それも間違っている方法だと思うが)。性的な興奮を満たすための役割もあって、一石二鳥というわけである。

やっかいなことに、役者と演出家という立場はそういうことが最もやりやすい環境にある。宗教において教祖と信者の関係でも起こりやすいのは周知のことだが。

基本的に演出家や監督という生き物は、大嘘つきのド変態でなければ務まらない仕事である。ただ、それを作品以外のところでは理性で押し込めて生きていくべきなのだが、たまにその変態性をあえて包み隠すことなく「自分はちょっと社会からはみ出てしまう、やんちゃな芸術家なんだ」とふるまう人たちがいる。

そういう人たちの存在が記事の二ページ目にある「演劇人って難儀な生き物」という一般評価に繋がるのだろう。


演劇 日時: 11:19

2014年09月20日

動かされている
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[日常] すっかり寒くなってきました。

大阪には半袖短パンしか置いてないので寒いのだけど、かといって家の人が着ている長袖やジーンズなどはサイズが違うし(妙に大きい)、なんだかいろいろ古いし着る気がおきないのです。

ところが「長袖いる?」「いらない」「長袖いるやろ?」「いらないってば」「長袖おいといたから」「!」と、押し切られる実家あるある。すべてが結論ありきです。


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大阪では基本的に車移動なのだけれど。

最近の車は(というかうちの車は)、アクセルを踏んだり、ハンドル操作をするときに、思い通りに動かしているように見えて、コンピューターが間にガッツリ入って制御し直されている気がする。アクセルを適当に踏んでも適切なスピードを保っているし、ハンドルを適当に傾けてもきっちり曲がっていくから。

なんというか、表現は難しいけど、ハンドルの向こうにもう一人小さいプロの運転手が入ってて、「こういうことかい?」と運転し直されてる感じ。いや、もうそんなんだったら表に出てきて運転してくれれば。

やがて、運転席にはブレーキしか無くなる時代も来るでしょう。


日常 日時: 09:44

2014年09月19日

動かぬ台車
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[日常] 重い台車を転がすとき、最初にものすごく力がいるように、実生活で何か新しいことを始めるときも、最初にものすごく力がいるし、なかなか思い通りに転がってくれないことがある。

自身の体験でいえば、受験のとき、バイトを始めたとき、会社に入ったとき、そして自営業になったとき、人生の節々で同じことを感じて生きてきた。いわゆる「壁」と表現されることもあるけど、僕の場合は「台車」のイメージに近い。

最初はどんなに力強く押してもビクともしない。ところが少し転がりはじめると(決して楽ではないが)、スーッと転がり続ける不思議がある。「あれ、力入れなくても動くの?」という不思議。台車が軽くなったわけではないから、押し方のコツを覚えたのだろうが、実感がない。そしてまた、油断した頃に大きな石にぶつかって止まるのだ。

あまりにも要領が悪いために、動かない台車に出会う数も多く、この歳になると「はいはい、いつもの動かないやつね」と焦らなくなった。いや、焦れよという気持ちもあるのだけど、こればかりは、自分というやつにそこまで期待してないんですな。諦めもしないけど、期待もしない。

期待してないから、大した失望もないんです。


日常 日時: 10:36

2014年09月17日

おっさんがおっさんに
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[日常] 毎朝、実家の犬ドッグを連れて散歩しています。


犬ドッグ

彼はいつも外でウンコすることを日課にしているらしく、しかも本人的には場所が決まっているようで、そのスポットに近づくと足が早まります。もう出るし、もう出るし、みたいなことなんでしょうか。

この前、散歩に出てすぐに僕のほうがお腹が痛くなって自宅に引き返そうとしたところ、犬ドッグが「いや、そういうことなら、ここでするし!」と慌てて道路の真ん中でウンコしだしたのは申し訳なかったです。多くを語らないだけに、その行動の節々に哀愁を感じます。

この犬ドッグは人間に換算すると御年34歳だそうで(その根拠も怪しいですが)、ほぼ同い年。34歳のおっさんが35歳のおっさんに抱きついてベロベロに舐めるという地獄絵図、人に見せられるものではありません。


日常 日時: 22:47

2014年09月16日

自己満足
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[日常] in大阪・別宅です。

一階の掘りごたつで作業をするのはどうも腰が痛くて集中できんなあということで、十五年ぶりに二階の自分の机を片付けて仕事場をしつらえました。中学生から高校卒業まで自分が使っていた机です。

父親のギターだのプリンタなどが乗せられていたのですが、それらを降ろして、十五年ぶりに電気スタンドをスイッチオン。


つきました!

蛍光灯自身も「え!?」と思ったことでしょう。かつて慣れ親しんだ机だけあって使いやすく高さもちょうどいいのですが、どうも受験勉強とかで追い込まれた記憶が蘇ってきてダメですね。当時、高校生だった僕も「こんなつらい思いしてまで、将来の自分はどうなってるんだろう?」と思ったことがあります。アンジェラアキの歌みたいなやつです。

昔の自分に声を掛けられるなら「その努力は自己満足だぜ」と語りかけたいです。


日常 日時: 09:25

2014年09月15日

シンプル
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[日常] 映画「舞妓はレディ」を見ました。

周防監督の変態性が随所に良く出ている素晴らしい映画でした。シンプルでごまかしようのない、真っ直ぐな(ように感じる)演出に、とてつもない技術を感じます。

ジャンルは全然違うけど、周富徳がホテルの総料理長の試験のときに、制限時間の終了間際まで何もせず、最後の5分でシンプルなチャーハンを作って勝ったとか、そういう美学に近いと思います。

似たようなものに「あえてシンプルにした」というようなものがあるけど(無印良品のような)、あれはシンプルを身に纏った付け足しの演出です。世の中には「無駄なんで外しました」というシンプルと、「このほうがオシャレでっしゃろ」というシンプルがある。そのシンプルたる所以が”機能”から生まれているか、”デザイン”から生まれているか、の違いですね。

飾りを取っ払って無駄を削いでいくと、残るものは非常に小さくなるものです。たまに何も残らないことがあって、「全部がいらないものだった」と気づくこともあるくらい。付け足す演出と取り除く演出。そのバランスが絶妙なのが今回の映画でした。


日常 日時: 11:10

2014年09月13日

ヤーさん
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[日常] 先日、母が知人方からお米をいただいたらしい。

そのお礼としてハムを贈ったらしいのだが、そのお返しにまたご丁寧な手紙をもらい、「何を返せばいいだろうか」と頭を悩ませている。いや、その手紙はハムのお返しだし、ハムは米のお返しなんだよね? もういいんじゃないの?

この先、一体何に収束していくのだろう。一年後には泥団子でも投げ合ったりして。


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EXILEグループの組織構造というか、裾野の広げ方はヤーさんのそれと似ていると思うのだけど、それは別に悪口ではなくて「絆」とか「夢」で人を繋ぐには理にかなった作り方なのかもしれない。時代劇とか見てても昔の組織って全部そうだし。

関係ないけど、錦織選手が決勝進出を果たしたときのニュースコメントに、一般の方が「夢の第一章完結にむけて頑張って下さい!」と書き込んでいて、いや、こんなところにもEXILEの息が、と思った。

「フィジカルがさあ」とか言うサッカーファンとかも、かなり流行に毒されてるよね。君、10年前はそんな単語使ってなかったでしょっていう。


日常 日時: 09:10

2014年09月11日

シムシティの感覚
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生活保護費29万円「生活苦しい」

この記事を読んだ多くの人は「いや、贅沢じゃないか?」という印象を抱くらしい。そのような印象操作のある記事だ。確かに、一般的な感覚に照らし合わせればそうだろうが、それは広い意味で「健全な人」の考え方であって、それは同じく健全な人にしか通用しない論理だと思う。

「健全な人」は、月に10万や15万でも節約して創意工夫で頑張れるだろうが(劇団員の鈴木さんとか)、保護を受けている人たちは単なる金銭的な貧困とは一味違う。「ギリギリ」の状態を与えればさらに破綻しやすくなり、やがて追いつめられ、社会から完全にドロップアウト(自殺や犯罪に手を染めるなど)する結果に直結する。ドロップアウトした人が溢れかえれば、治安は悪化するだけだ。

少なくともシムシティではそうなります。

受給者を「健全な人」に戻していくような仕組みが無いかぎりは、現行のような、ある程度十分な金額を与えて「これでひとつ、大人しくしてください」とフタをするしかなく、それはそれで残酷な制度なのである。


日常 日時: 15:33

2014年09月10日

誤りチェック体制
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[日常] 巷で話題の、「お値段以上」ではなかった広告。


中学受験とかで出題されそう。

最近のネットニュースの記事もそうだけど、パッと見ればわかるようなミスもそのままリリースされちゃっているのは、チェックする人がいないのだろうか。ニトリには理系の人がいなかったのかな。いや、そんな問題でもないような。その点、やっぱり新聞はすごい。

海外のホテルとかで無茶苦茶な日本語の注意書きを見ることがあるけど、僻地でもないんだからちゃんと日本人にチェックさせればいいのに、してないんだろうな。全然分かってないのに、周りから「あの人は日本語できるから」と持ち上げられて断り切れずにやることになったか、翻訳ツールで適当に済ませたか。

たまに、「何を見て書き写したの?」と言いたくなるやつあるよね。


日常 日時: 11:09

2014年09月08日

ストーリーだけでも
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[日常] HUNTER×HUNTER長期休載へ。

ニュースのコメント欄には「分かってた」「やっぱり」という声が並んでいたけど、その中に「もう漫画はいいからストーリーだけ教えてくれ」というのがあって笑った。普通は、作者たるもの、ストーリー(構想)はしっかりあった上で描いているに違いないと思うものだが、実際のところは読者とほとんど同じレベルで先が無い場合も多いだろう。

というのも、ストーリー(プロット)をあらかじめ立ててその通りに作品を仕上げていくというのは、個人的にはそれはそれで難度の高い仕事だと思っている。確かにそうすることで製作は計画通りには進むのだけど、仕上がったものが面白くないということが往々にしてあるからだ。

ストーリー(プロット)通りなのに、仕上がりが「あれ?」とつまらなくなってしまう理由はいくつかある。プロットは事象の羅列でデジタルチックなものだけど、実際の物語は人物の感情で動くアナログチックなものだから、作者が進めたい方向と、人物の動きたい方向というのがどうしても合致しないことが出てきてしまうのだ。

それは最初に立てるストーリー(プロット)の完成度、という話に繋がってくるのだけど、つまるところ、ストーリーを立てる段階で、人物のアナログな動きも組み込まなければ、設計図としては役に立たない。ただ、それを綿密に作るくらいなら、「もう作品を描いちまったほうが早い」となるのである。

ということで、「ストーリーだけでも教えてくれ」というのは気持ちは分かるが、なかなか厳しい話なんだよ、ということをご理解いただきたく、HUNTER×HUNTERの一件に便乗した自己弁護とさせていただきます。


考察 日時: 09:31

2014年09月07日

脱却の教え
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[日常] 東京に戻ってきました。

羽田空港に着いて、到着ロビーを歩いていると「パパどこまで行くんだよ!」と後ろから知らない子に跳び蹴りされた。その後のなんとも言えない、気まずい顔が印象的だった。

ここで「ふざけんな、まずは謝れよ子供」と思うか、「君のパパじゃなくてごめんな」と思うかでその人間性に差が出るのでしょうが、僕は前者のほうです。ごめんな!


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安達祐実が最近。

脱・子役イメージを狙って、セクシーな演技に体当たりしているというようなニュースを見かけるけれど、それってたぶん、結局のところ子供が脱いでるようにしか見えないというか、「子供っぽく見られるから大人っぽくする」という方向の努力は、かえって子供時代のことを視聴者に思い出させてしまうのではないかと思う。

本気で脱・子役イメージを狙うなら、もう年齢の概念を感じさせない妖怪の役をやってみるとか、お掃除ロボットの役だとか、全然角度の違うものを持ってくるほうが効果的なような気がする。外野からいい加減なことを言っているのは承知の上だが、もう何年も安達祐実はそういうことをやってるような気がして。親心みたいなものか。

親心を感じさせるあたり、まだ脱却できていないと言えよう(うまい!)。


日常 日時: 11:34

2014年09月06日

ゴーヤのカーテン
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[日常] 実家にゴーヤのカーテンが設置されている。



夏の暑さを防ぐために設置されたようなのだけど、風は通らないし、朝から真っ暗だし(電気をつけるから結局暑い)、なんだか見たことのない虫も住んでいる様子。我が家の誇る実益のないエコの象徴だ。

今はもっぱら、これを取り外すのが僕に課せられた任務だけれど、2メートル以上の高さと4メートルほどの幅を持つこのカーテンはしっかりと網に絡みついており、なかなか重い腰が上がらない。秋になり、なんとか枯れて取りやすくなるのを待とう。

ちなみにこのカーテンから得られたゴーヤは1個だけ。その節はスタッフがおいしく頂きました。


日常 日時: 11:36

2014年09月05日

恐怖の洗浄ノズル
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[日常] 以前、実家のトイレが壊れた時。

ウォシュレットのシステムの再起動をするために電源を何回か押していたら、突如スーッとお尻の洗浄ノズルが出てきて、それまで便器を覗き込んでいた僕は「やばい! 顔に掛かる!」と慌てふためいた。

結局、それは再起動の際の各パーツの試運転みたいなことで、水が出ることは無かったのだけど、ノズルの出現ごときで大の大人がすごい勢いでバックジャンプしまうとは思いも寄らなかった。僕にこんな秘められた跳躍力があったなんて。

これは防犯に活かせないだろうか。泥棒が窓から侵入しようとした際、なぜか部屋に便器が置いてある。「なんでこんなところに便器が……」と思ってのぞいてみるとスーッと便器の奥から洗浄ノズルが出てくるのである。思わずのけぞり、恐怖のあまりに退散するのではないだろうか。

それ、別にトイレである必要ないか。水を浴びせる装置でいいか。


日常 日時: 12:26

2014年09月04日

ハイブリッド
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[日常] 店の人にすぐ聞くタイプと、自分で探すタイプがあると思う。

僕はどちらかというと後者だ。昔はその傾向が極端で、自分で探して「無い」と判断するとそのまま店を出ていた。それぐらい店の人に聞くということが億劫だったし、なんとしても自分で探すべきだ、という考えが強かったのだと思う。

それが今は少し変わってきている。最初は自分でとりあえず探してみるけど、ちょっと探して「これはあと5分探しても見つからなさそうだ」と判断すると店の人に尋ねるようになった。ハイブリッドなやり方だ。

ちょっと話の種類は違うけど、携帯電話の保険とかもそう。買ったばかりのときはリスクを考えて保険に入るけど、半年ぐらい経ったらその後の保険料と、壊してしまうリスクを天秤に掛けて保険は解除する。入る、入らないの二択ではなく、最初は入って後からやめるなど、ちょっと柔軟に考えるようになってきた。それを柔軟というかどうかは微妙だけど。

白か黒か決めて動くことは簡単で自分を納得させやすいけど、状況に合わせて動きを変えていくのも、それはそれで頭の訓練になる気がする。風や波をよむサーファーとか(知らないけど)、気候などに左右される職業の人(農業とか)は、そういう思考が備わっていたりして。


日常 日時: 11:41

2014年09月03日

赤魚
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[日常] 本日の赤魚(あかうお)。



もうちょっと具体的な名前は無いものだろうか。実際のところアコウダイなのかアラスカメヌケなのか、チヒロアカウオなのか、どれも似ていてよく区別を付けていないそうだ。もういいや、ぜんぶ赤魚や! そういうことにしよう! ということなのだろう。

消費者もアコウダイと言われればそこまで悪い気はしないだろうが、アラスカメヌケ100円と言われてもなかなか触手が伸びないというのが実際のところだろう。だったらもう、RED FISHでええやろ、それ以上のことを考えるのはお互いやめまひょ、ということだ。

この年になって、何でも知り過ぎるのは息苦しいし、そもそも見ていないものは存在しないのと同じだ、というふうに考えるようにもなった。

もちろん、今もどこか遠くで起こっている戦争のこととか、自分の振るまいが与える影響のこととか、見えないものを想像する力も必要だろう。だがとりあえず、「赤魚」程度のことは、もうあまり深く考えないようにしている。


日常 日時: 10:38

2014年09月02日

文豪気分
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[日常] 実家の真上をゴオオオオ……と飛行機が通過することがある。

そんな時、flightradar24を見るとたちまち「広州発バンクーバー行きの中国南方航空ボーイング787が通過したのだな」というのが分かる。知ってどうするんだという感じもするけど、以前は見えなかったことがどんどん見えるようになってきているし、聞かなくて良かった声や意見もどんどん耳に入ってくる時代になった。

小さいところで言えばスポーツの結果とかもそう。帰宅してからゆっくり見たいと思っていても、勤務中にうっかり携帯を開けてしまって結果が飛び込んで来たり、帰りの電車での話し声で知ってしまったり、うっかり電光掲示板でニュースを見てしまったりする。

昔の文豪でさえ、雑音を断ち切るために旅館に閉じこもったりしていたぐらいだから、情報をきちんと遮断したかったら、もう核シェルターみたいなものに閉じこもるしかないのかも、とさえ思う。

特に自分の中から何かをひねり出すような作業をしているとき、新しい知識や情報を取り込みたいとは思わない。それは、ウンコしているときに食事する人がいないのと似た生理かもしれない。

そんなことを思いながら、大阪の滞在中、束の間の文豪気分を味わっている今日この頃です。気分を味わっているだけで、特にひねりだしてはいないのだけど。


日常 日時: 10:14


とくおNOW

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