最後のプライド
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[日常] 結果は認めるが、心は認めない、という苦し紛れに遭遇することがあります。

たとえば、痴漢で捕まった男性が、触ってしまった行為自体は認めるけれども、動機については「ムラムラした」とかではなく「ストレスが溜まっていた」などとぼかしたりする。某音楽家においても、作曲は確かにゴーストだったが、耳はホントに聞こえてないんです、とか。

某研究者においても、記述の間違いは認めるけれども、故意による捏造ではないと主張しているでしょう。(ほとんどの研究者は、捏造の他には起こりえない間違いと言っています)。

端から見ると「なんでそこはまだ嘘つくんだろう?」と思ってしまうけど、当人にとっては差のあることなのでしょう。つまり、逃れようのない「見た目の結果」は受け入れるけれども、そこに至った「心の動機」について受け入れないのは、人として立ち続けるための最後のプライドなんだと思います。動機まで本当のことを言ってしまうと、人として立っていられなくなるのです。

教室でうっかりウンコを漏らした小学生が「朝、カレー食ったから」みたいなよくわからない言い訳をするのと、構造はまったく同じです。


日常 日時: 2014年04月10日 20:44 | 

とくおNOW

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